酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
“巨人軍の将来の大器”と評されたジャイアント馬場だったが… 「絶望しました」10代後半で宣告された体調の異変とは
posted2021/12/20 11:03
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph by
Sports Graphic Number
1954年の『野球界』の12月号には巨人軍の新入団選手として、馬場正平の名前が出ている。
この年11月20日、馬場はヘルニアの手術をするために母とともに上京した。この折に、馬場正平は、入院先の飯田橋病院で巨人入団のための身体検査も受けている。三条実業野球部の渡辺剛部長も同行した。
その模様は報道陣にも公開され、大きな話題となった。報知新聞は、「巨漢投手都入り」と題して写真入りで報じている。
「十六歳にして六尺三寸四分の巨漢として球界の話題をにぎわし、巨人入りした新潟県立三条実業高校機械科二年生の馬場正平君が二十日同行の渡辺剛野球部長と母堂のみつさん(五七)に連れられて上京した。同君の上京は、整形手術を受けるためで二十一日飯田橋病院に入院したが、ベッドも普通のものでは間に合わず病院も準備にてんてこまいだった」
この身体検査には巨人軍の谷口五郎コーチも駆けつけた。
この時の計測によると馬場正平は身長191cm、体重98.4kg、身長はロシア出身のビクトル・スタルヒン(高橋)と並びプロ野球で最も高かった。日本人では阪急ブレーブスの梶本隆夫が186cmの最高だった。
この時の身体検査の写真は、スポーツ紙だけでなく多くのメディアで取り上げられ、馬場の巨体は全国に知られるようになった。これまで、大きな体を折り曲げて、できるだけ目立たぬように生きてきた馬場正平は、以後、好奇の目にさらされながら生きることとなる。
国松、加藤、森…そうそうたる同期たち
馬場正平は、翌1955年1月15日、読売巨人軍に入団した。身体検査のときは、母と野球部の渡辺剛部長が同行したが、このときは、一人で上京し契約した。
この1955年度の巨人の新入団選手は20人。前年、巨人は中日ドラゴンズに敗れ、5.5差の2位に甘んじた。危機感を抱いた水原監督はじめ首脳陣は、有名無名の選手をかき集めたのだ。当時の巨人軍の全選手数は55人、このうち20人が新人だった。
同期で最も注目されたのは同志社大学を中退して入団した国松彰で、180cmの大型左腕投手だった。のちに外野手に転向し、巨人V9の頃まで活躍する。
先日逝去した元巨人スカウト部長の加藤克巳も同期。中京商時代にエース中山俊丈(中日)を擁して夏の甲子園を制覇、高卒後1年間のブランクはあったが、巨人軍を背負って立つ捕手になると期待された。
岐阜高から入団した森昌彦も捕手。当時としては珍しい右投げ左打ちで、打撃で注目された。のちV9時代の不動の正捕手となる。
こうした有名選手に比べれば、馬場正平は体格こそずば抜けていたが全くの無名だった。