酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
“巨人軍の将来の大器”と評されたジャイアント馬場だったが… 「絶望しました」10代後半で宣告された体調の異変とは
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph bySports Graphic Number
posted2021/12/20 11:03
存命時のジャイアント馬場さん。巨人軍入団後、有望な若手と見られていたが……
戦評には「馬場が長身から投げ下ろす球にはさしてスピードがなく、武器のアウドロも有効ではなかった」とある。
残っている記録では、初年度の馬場正平の登板は2試合だけ。1年目の二軍成績は、2試合6.2回、自責点2、防御率2.57、勝敗つかずというものだ。
なお、イースタン・リーグはこの年で中断し、1961年まで開催されなかった。ウェスタン・リーグは存続したが、巨人など関東のチームの二軍は、公式戦がない状態が続いた。しかし、当時の巨人は地方に行けば、二軍戦でも大入り満員となることが多く、興行的に十分成立したので、他のチームを帯同して地方巡業という形で試合を行った。
「将来の大器と藤本二軍監督は太鼓判を押している」
2年目の1956年になると、加藤克巳の評価が高くなった。寮長兼務の武宮敏明コーチはこのように評した。
「いま、一番いいのは、加藤(克巳)です。中京商高の出身ですが、インサイド・ワークは一番優れているでしょう。ただ身長が五尺五寸ほどで、一寸小柄なのでバッティングの方が一寸落ちる。これは気の毒です。しかし肩もいいし、キャッチャーとしては優れた感覚を持っています」
一方で、馬場正平の寸評はこのようなものだった。
「将来の大器と藤本二軍監督は太鼓判を押している。まだ肩の筋肉など幼稚園級だそうだ。性質も素直で先輩のお教えを忠実に守っているので、目下順調に育っているというところだ。ただ、肩の筋肉が非常に弱いので、すぐ過労になりがちで、内堀コーチが、実に親切に馬場投手の疲労を計算してやっている。二、三日の休養を取って投げると、またスピードが出るということだ。野球界きっての大型投手に、というのが彼の抱負」
ようやく他の二軍選手に同行して東北、北海道、北陸などの巡業に出て多くはないが投げるようになった。
記録に残っている限りでは、馬場は少なくとも7試合に登板、そのうち2試合に先発し、2勝1敗という成績だった。
「あんた、按摩さんになりなさい」
しかしこの年の後半くらいから、馬場の体調に異変が起こる。
馬場本人はのちにこう述懐している。
「シーズンオフになって視力が落ちていくのがわかりました。5メートル先も見えなくなったんです。あわてて病院に行きました。そうしたら『脳下垂体が視神経を圧迫しているので、手術をしなければ目が見えなくなる。手術しても完全に治る可能性は1%ぐらい』というんですよ、絶望しましたね」
馬場正平は、オフシーズンになって視力の低下に驚いて、合宿所に近い田園調布の病院に行った。しかし「ウチでは手に負えない、警察病院に行きなさい」と言われて当時千代田区富士見二丁目の警察病院に行った。
ここで「脳下垂体の腫瘍」について知らされ「あんた、按摩さんになりなさい」と言われる。
そこで、東京大学医学部第一外科教授の清水健太郎を訪ねた。そして脳下垂体の良性腫瘍を除去する手術をすることになるのだ。<第3回へ続く>