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「こんな大金見たことない」 ジャイアント馬場16歳《高校2年で中退して巨人入団》の真相と、知られざる球児時代
posted2021/12/20 11:02
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph by
Sports Graphic Number
巨人でスカウト部長を務めた加藤克巳さんが亡くなった。昭和から平成にかけて山倉和博、原辰徳、槙原寛己ら巨人の主力選手を獲得したことで知られるが、実はジャイアント馬場こと馬場正平が巨人軍の投手だったときの相棒だった捕手だった。
筆者は2015年に『巨人軍の巨人 馬場正平』(イースト・プレス刊)を上梓したが、このときに加藤さんなど昔の巨人軍選手に当時の馬場の話を聞いた。この時の取材メモをもとに「野球選手・馬場正平」の軌跡をたどりたい。
根っからの野球好き・巨人好き
馬場正平は、1938年1月23日、新潟県三条市西四日町に生まれた。父は一雄、母はミツ。上には兄正一、姉ヨシ、アイ子がいた。正平は次男だったが、年の離れた兄、姉のいる末っ子だった。世代的には俳優の緒形拳、歌手の美空ひばり、元首相の森喜朗らと同じだ。
兄の正一は1943年2月6日、ブーゲンビルで戦病死した。父の一雄は鍛冶職人だったが病弱で、一家の家計は母のミツと2人の姉が雑貨店を営んで担っていた。
馬場の両親は小柄で、本人も小学校低学年までは小柄だったが、5年生頃から急に身長が伸びて目立つようになった。これは「下垂体性巨人症(下垂体性成長ホルモン分泌亢進症)」という病気によるものだったが、当時はこの病気は全く知られていなかった。
新潟は野球好きが多い土地柄で、馬場は11歳のときには少年野球チーム「若鮎クラブ」に入団する。エースだったと言う。また同時期に馬場は「少年ジャイアンツの会」に入会。今のファンクラブの原型の一つで、馬場は全国大会に行くため、休みを利用して列車で東京へ行ったこともある。このときに馬場正平は大打者の青田昇とトイレで顔を合わせて感動している。根っからの野球好き、そして巨人好きだったのだ。
中学入学時にはすでに185cm
1950年、三条市立第一中学校に進学。すでに身長は185cmあり、足に合う靴がないため手先の器用な父一雄が作ったまな板のような下駄をはいて通学することもあった。馬場は中学でも野球部に入って中心選手になる。小学生の時は投手だったが、中学校では主に一塁手だった。この時期、中越地区の野球大会で優勝したという。
雪国の新潟では冬季は野球ができないため、馬場は卓球部に入り、ここでもエースになった。プロレスに転向後も馬場は卓球が得意で、小さなラケットを巧みに操ってポイントを稼いでいたが、少年時代から巨体にもかかわらず、利発で活発な子供だったのだ。