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JリーグPRESSBACK NUMBER
「普通のJリーグのチームにはなりたくない」いわきFCのフィジカルだけでない “震災からの復興ホームタウン革命”
text by
川端康生Yasuo Kawabata
photograph byYasuo Kawabata
posted2021/12/16 11:03
いわきFCと東日本大震災の被災地。ホームタウンとして徐々に浸透、拡大している
1人で訪れたスタジアムやパークで、知り合った人と一緒に応援するようになる。1人が5人になり、10人になり、その10人が別の10人とまた一緒に……。
知り合うはずもなかった人が出会い、つながり、相談し、横断幕を書き、旗を作り、歌を考え、週末の試合を楽しみにする。
そんな日々を重ねるうちに、サポーターは増えていった。
サッカー場だけではない。
いつの間にか、いわきFCの赤いフラッグがはためき、いたるところにポスターが貼られている風景が当たり前になった。「本日、13時キックオフ!」なんて書かれた手作りの看板を目にすると、よそ者でさえ嬉しくなる。
地元スポンサーはもうすぐ300社を超えそうだという。駅でも役所でも銀行でも、そして新聞紙面でもテレビ画面でも「いわきFC」の文字を見ない日はいまやない。
そんなすべては、いわきFCが生まれなければ起きなかった。なかったものができたら――その6年後の姿である。
田村監督が折に触れて「復興」を口にする理由
「サッカーの聖地だったJヴィレッジが、震災があって、復興の拠点となって……」と田村監督が話し始めたのは2019年、クラブ創設4年目のことだった。
あの日から8年にわたり、原発事故対応の前線基地となってきたJヴィレッジがようやく全面再開。その記念に福島ユナイテッドとの「福島ダービー」が行われたときのことだ。
実は田村監督は折に触れ、こうした発言を繰り返してきた。メディアに対してだけではない。選手にも、時には試合前のロッカールームで震災の映像を見せることもあった。
「(JFL昇格を決めた)地域チャンピオンズリーグも、JFL開幕戦も、J3を決めたのも、節目の試合はいつもJヴィレッジだった。それは偶然ではなく必然。3月11日に試合をするときももちろんそう。特別な思いがある。このクラブがなぜできたか。それを忘れないこと、言い続けること。それもクラブのカルチャーとして続けていかなければならないと思います」
震災で傷ついた町が、新産業の集積地に
いわきFCは震災がきっかけとなって生まれたクラブだ。
復興のための企業誘致に応じてドーム社(アンダーアーマー日本総代理店)がいわき市に物流センターを作り、併せてスポーツによる地方創生を掲げて誕生させたのがいわきFCだ。
そんな彼らのオリジンを考えれば、昨季からホームタウンに双葉郡の広野町、楢葉町、富岡町、川内村、大熊町、双葉町、浪江町、葛尾村を加えたことは自然の流れだったかもしれない。