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「酔った芸者が度がすぎた冗談を言った」赤坂の料亭でピストル発砲事件…仲の悪い“3人のボス”が日本ボクシングを統一させた
text by
細田昌志Masashi Hosoda
photograph byKYODO
posted2021/09/27 17:07
1952年5月、世界フライ級チャンピオンになった白井義男。これが日本ボクシング統一に大きな役割を果たした
長年盟友関係にあった読売新聞社主の正力松太郎がテレビジョン事業に打って出ようとしていたからだ。正力は職業野球(プロ野球)と並ぶテレビジョンの目玉として、当初ボクシングに目を付けたのである(※力道山を擁してプロレスが立ち上がるのは、この3年後)。株式会社後楽園スタジアム(現・株式会社東京ドーム)社長にして、初代帝拳会長でもある田辺宗英は統括団体の代表としてうってつけの存在だったのだ。
これ以降、「拳闘」から生まれ変わった日本のボクシングは、四分五裂を繰り返していたのが嘘のように一つにまとまった。局部的な脱退はあっても、大規模な分裂な陰をひそめたのである。
3人のボスの役割「競技」「興行」「組織」
さて、これまで3篇にわたって詳述してきた日本ボクシングの歴史を改めて振り返ると、3人のボスの役割がはっきり判る。渡辺勇次郎が「競技」。嘉納健治が「興行」。田辺宗英が「組織」である。彼ら自身、おそらく無意識のうちに、それが自分の役割であるかのように、黎明期の日本のボクシングに植えつけたことは判然とする。
キックボクシングが野口修という若きプロモーターの情熱で立ち上がり、そこに父の代の右翼人脈が絡み合うことで、現況の嚆矢となったのは拙著『沢村忠に真空を飛ばせた男/昭和のプロモーター・野口修評伝』(新潮社)で詳述した。
このとき、創始者の野口修も、協同企画の嵐田三郎も、岡村プロの岡村光晴も、興行にだけ汲々とし、競技の確立にさほどの関心も払わなかった。おそらく、アマチュアへの普及など考えもしなかっただろう。もし、3人のうち1人でも各大学や専門学校を中心としたアマ組織の確立に奔走していれば、状況は今と違ったのかもしれない。
とはいえ、ボクシング業界も、「敗戦」と「白井義男の世界戦」「テレビジョンの普及」がなければ、未だに統一していない可能性は十分あった。
キックボクシングにもその手の外的影響があればいいのだが、今のところ見当たらない。4年前、カードゲームの大手メーカー「ブシロード」がキック界に参入した際、筆者は淡い期待を抱いたものだが、ブシロードは3年程度で撤退した。
日本は、黒船によって開国し、それが一因となって幕藩体制が瓦解、近代化を迎えた。同様に、日本のボクシングも諸々の「外圧」で分裂の歴史を終え、近代化を迎えた。そう考えると、キックボクシングにとっての「外圧」とは何か? 深く考える次第である。