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「なぜバラバラだったボクシング団体は統一できた?」“教師を殴ってアメリカ留学した男”から始まる日本ボクシングの歴史
posted2021/09/27 17:05
text by
細田昌志Masashi Hosoda
photograph by
KYODO
このたび「第43回講談社・本田靖春ノンフィクション賞」の栄誉に与った拙著『沢村忠に真空を飛ばせた男/昭和のプロモーター・野口修評伝』(新潮社)において、筆者は「拳闘」と呼ばれた黎明期の日本ボクシング界についても、相応のページを割いて詳述してきた。
日本にボクシングが伝わったのは、多くの文化、風俗がそうであるように、幕末の黒船来航を契機とする。しかし、興行が定着し競技にまで昇華するのは、昭和前期まで待たねばならない。そして戦後、組織が統一され、コミッションまで誕生したことで、現在の日本ボクシング界は完成した。
筆者は著述を通して「なぜ、ボクシングに出来たことが、キックボクシングには出来ないのか」を深く考えた。というのも、組織や団体の離合集散について、キックボクシングの関係者と話すと、必ずと言っていいほど、「ボクシングみたいに組織が統一されないものか」という結論に帰着するからである。事実、誕生から半世紀以上も経過してなお、キックボクシングにはコミッションはおろか、統一組織すら存在しない。
しかし、調べてみると、ボクシングも、すんなり組織がまとまったわけではなかった。むしろ、キックボクシング以上の騒動と混乱の末に、なんとか一つに束ねられた歴史があった。
無秩序だったボクシング界をまとめた“3人”
まず、気付いたことは、黎明期の日本ボクシング界にはキーマンが3人いたことである。
日本拳闘倶楽部(日倶)会長の渡辺勇次郎。
大日本拳闘会(大日拳)会長の嘉納健治。
帝国拳闘会(帝拳)会長の田辺宗英。
彼らこそ、無秩序だった日本のボクシング界をどうにか取りまとめ、曲がりなりにも正常化に持って行った功労者である。3人のうち1人が欠けても、現在のボクシング組織は完成しなかったのではあるまいか。
先達の粒粒辛苦によって、黎明期の日本のボクシング業界は統一され、戦後の大発展期を迎えた。とはいえ、彼らの足並みは当初から揃っていたわけではまったくない。むしろ、血生臭い抗争にも発展しかねない相克を繰り返してもきた。そんな緊張関係にあった彼らが、なぜ、協力態勢に変異したのか。
その一連の歴史を、前・中・後篇を通して振り返りつつ、改めてここに書き記しておきたいと思う。
教師を殴ってアメリカ留学した男
1921年(大正10)年1月、寒風吹きすさぶ横浜港に1人の日本人が降り立った。