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〈平成最後の甲子園ヒーロー〉18歳の吉田輝星が語っていた“農業高生のプライド”「高校球児らしいといえば高校球児らしいでしょ」
posted2021/08/15 11:04
text by
石田雄太Yuta Ishida
photograph by
Keiji Ishikawa
〈初出:2019年8月8日発売号「〈熱狂誕生の秘密〉僕はこうして旋風になった」/肩書などはすべて当時〉
日大三の冬合宿よりも「絶対、オレらのほうがキツい」
「2年の9月に負けて、3年の夏まで、めちゃくちゃ長かったんですけど、その間の練習量は周りに誇れるものだったと思います。甲子園で勝つために他のどこよりも練習することは絶対条件だと思っていました。日大三の冬合宿って、有名じゃないですか。テレビでやってるのを見たんですけど、絶対、オレらのほうがキツいと確信しましたからね。この全国で一番キツい練習を、どれだけ全力でやれるか。先輩の後ろを惰性で走っていた自分が、今度は下級生を引っ張って、下級生がついてこられないくらいに引き離して、さらに同級生の間でも競争しないといけなかった。
寒い中の冬合宿ではお菓子もダメだし、携帯も使えない。ごはんもメチャクチャ食べないといけないし、練習して、食べて、昼寝して、練習して食べて寝て、起きて練習して食べて、の繰り返しです。しかも、自分たちの年は雪が少なかったんですよ。雪ってヒザの高さまであると走れなかったりするのでごまかせるんですけど、地味に積もってるくらいだと長靴で走れちゃうので、これが一番、手こずるんですよね。真っ白な雪が練習終えると全部、茶色くなって溶けるんです。ホント、泥臭い毎日でした(笑)」
泥だらけになるだけではなく、吉田はピッチャーとしてのメカニズムも見直した。金足農の嶋﨑元監督の紹介で八戸学院大の正村公弘監督のもとを訪れた吉田は、欠点を指摘される。
子どもの頃から「縫い目が見えないのがいいボールだ」と父に教わり、ボールの回転を意識しながら壁当てを何万と繰り返してきた吉田は、上から投げ下ろすことをよしとしてきた。それは長所でもあったのだが、欠点にもなっていたのだ。上背のない吉田が上から投げ下ろそうとすると顔が上を向いてしまい、軸がブレていたのである。それを矯正するために、吉田はヒジを下げるよう指導を受けた。その結果、リリースポイントが安定してコントロールが格段によくなったのだという。
「最初はそのフォームには違和感があって、サイドスローで投げているくらいのイメージでした。でも映像で見たらそんなにヒジの位置も変わっていないし、逆にすんなり出てきていて、連投もできるかなという投げ方になっていた。そのフォームで投げ込んで一冬を越したら、練習試合に2日連続で投げても身体が張らなくなったし、高めのストレートを振ってもらえるようになったんです。春の大会では連投もできたし、秋田では思い通りの試合ができるようになっていたので、これはもう、夏は秋田では負けるはずがないし、普通にやれば甲子園へは行けるなという感じはありました」
“甲子園優勝が当たり前”のように振舞ったワケ
吉田は年が明けた初詣の際、絵馬に『甲子園優勝』と書いた。夏の秋田大会の開会式では中学時代のチームメイトに話し掛けられて『日本一になるピッチャーによく話し掛けられるな』と軽口を叩いた。甲子園へ一度も出たことがなかったのに、甲子園で勝つことが当たり前のように振る舞えたのは、いったいなぜだったのだろう。