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“29年前のバルセロナ”を知る荻野正二が見た東京五輪…全敗の北京、清水に託したバトン「この先が楽しみ」
text by
米虫紀子Noriko Yonemushi
photograph byJIJI PRESS
posted2021/08/06 11:00
1992年バルセロナ五輪で6位入賞した日本代表。荻野正二は当時22歳
「オリンピックに出られなかった時期もあったし、北京では全敗という経験もあったので、(東京五輪の)準々決勝進出は本当にうれしかったですね。やっぱりベスト8に入らないと、他の競技に押されるというか、バレー人気にもつながらないと思うので、そういう意味でも良かった。今回の五輪を見て、バレーボールをしたいなという子供が1人でも増えてくれたら。それが将来につながるし、バレーの火がまた灯ってくると思う。
唯一ちょっと残念なのが、順位決定戦がなかったこと。バルセロナの時にはあったんですけど、今の力だったら5位とか6位に行けたかもしれないし、試合を重ねることで成長し、チーム力もアップするから。あと2試合ぐらいさせてあげたかったですね」
29年で大きく変わった日本のバレー
バルセロナの頃と今では、日本のバレーは大きく変わったと振り返る。
「あの頃は、アウトサイドに僕や青山(繁)が入ると、守備に徹して、中垣内(祐一/現監督)さんという大砲になんとかつなげようという、中垣内さん頼みだった。サイドアウトを取る時は、セッターの松田(明彦)さんがクイックを中心にトスを上げていた。でも今は常に4枚攻撃を仕掛けている。面白いバレーを展開していますよね。それに、今の時代はサーブが一番のキーになっている。当時のサーブ力とは全然違います」
日本のバレースタイルだけでなく、世界的なスタイルも、ルールも違った。当時はサーブ権がある時のポイントのみが得点になるサイドアウト制だった。また、まだリベロ制度がなく、ミドルブロッカーが後衛でもコートに入っていた。当時はフローターサーブが主流だったため、サーブレシーブは主にアウトサイドの2人で対応していた。
それほどの大きな違いが、29年という年月の長さを物語る。