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“29年前のバルセロナ”を知る荻野正二が見た東京五輪…全敗の北京、清水に託したバトン「この先が楽しみ」 

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米虫紀子

米虫紀子Noriko Yonemushi

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photograph byJIJI PRESS

posted2021/08/06 11:00

“29年前のバルセロナ”を知る荻野正二が見た東京五輪…全敗の北京、清水に託したバトン「この先が楽しみ」<Number Web> photograph by JIJI PRESS

1992年バルセロナ五輪で6位入賞した日本代表。荻野正二は当時22歳

 29年前のバルセロナ五輪後、日本は3大会続けて出場を逃した。アテネ五輪翌年の2005年、当時の植田辰哉監督が、35歳だった荻野を主将として代表に呼び戻した。3年半、若手と同じ過酷なトレーニングに耐え、唯一の五輪経験者として体を張ってチームを引っ張った。北京五輪世界最終予選のアルゼンチン戦で、16年ぶりの五輪出場を決める最後の得点を決めたのは、38歳の荻野だった。

 その北京五輪に、大学4年で出場していたのが清水邦広と福澤達哉だ。そして今回の東京五輪では、34歳になった清水が唯一の五輪経験者として、チームを支えた。

 東京五輪メンバーに選出された時、清水は「北京世代の分も、思いをこの舞台にぶつけたい」と繰り返した。

 バルセロナから北京へと荻野がつなぎ、そのバトンを、清水が13年越しに東京へとつないだ。同郷で福井工大附福井高の後輩でもあり、ずっと気にかけてきた清水がつないでくれたことに、荻野は喜び、感謝した。

「うれしかったですよ。本当は福澤と一緒に選ばれて欲しかったけど、そこはチーム事情もあるし、スタッフの意向もあるので……。でもゴリ(清水)が出てくれた。試合途中から入っても、しっかりとスパイクを打ちこなして、トスが上がったらほとんど決めていたし、声もかけていた。たぶん北京のことが頭の中にずっとあって、1勝もできなかったという苦い経験を、今のメンバーにさせたくないということを毎日考えながら、練習したり、言葉をかけたりしてきたんでしょうね。

 応援してましたよ。『もっと出してあげて』って思いました(笑)。なんか、僕のあとを追いかけてるなと思って。22歳ぐらいで最初の五輪に出て、2度目はチーム最年長の立場で出た。僕も膝の怪我をして手術したし、あいつも大怪我をして、復活して、オリンピックに行けたというのも似ている。同じ道をたどってるなーって(笑)。だから余計に見るのが楽しみだったし、『よく頑張ったな』と言いたいですね」

 弟分への愛情たっぷりにそう語った。

日本に立ちはだかったブラジルの壁

 準々決勝では、29年前と同じブラジルと対戦し、0-3で敗れた。ブラジルの強力なサーブも、今年国際大会にデビューしたばかりの19歳・高橋藍を中心に耐え、コンビが組める状態で返したが、ミドルブロッカーの攻撃が思うように通らず、サイドの攻撃も苦しくなった。今の日本のパフォーマンスと勢いをもってしても、セットを奪うことができなかった。

 リオデジャネイロ五輪王者で、約18年間も世界ランキング1位の座を守り続けているブラジル。荻野は2015年夏から1年間、JOCのスポーツ指導者海外研修員としてブラジルで研修を行った際、その強さの根源をまざまざと見せつけられたという。

【次ページ】 「これでご飯を食べていくんだ」

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