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ロッテ前身球団の“消えた野球場”…南千住にあった「東京スタジアム(味スタじゃない方)」今は何がある? 

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鼠入昌史

鼠入昌史Masashi Soiri

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photograph bySankei Shimbun

posted2021/01/23 17:04

ロッテ前身球団の“消えた野球場”…南千住にあった「東京スタジアム(味スタじゃない方)」今は何がある?<Number Web> photograph by Sankei Shimbun

1962年5月に開場した幻の東京スタジアム。カクテル光線も眩しく「光の球場」と呼ばれた

 南千住という地名はなく、地名としては千住小塚原。隅田川を渡った先、今の北千住駅を中心とした地域は江戸時代から日光街道の千住宿として栄え、隅田川以南にも広がっていった。それが今の南千住の街のはじまりだ。ただし、宿場町の中心は隅田川の北側で、南側はあくまでも宿場町の外れにすぎなかった。さらにその宿場の外れから外れたあたりには罪人を処刑する小塚原刑場があったほどだ(ちなみにここで杉田玄白が腑分けをして解体新書を著し、吉田松陰や橋本左内の墓もある)。日光街道の西側、千住製絨所あたりは本当に何もなかったのだろう。

 ただ、北千住ほど発展していなかったことが結果的には良かったのか、近代以降は市街地ではなく工場の街として成長していく。さらに隅田川の水運の便にも恵まれており、1896年には常磐線隅田川貨物駅が開業。茨城県北部から福島県にかけて広がっていた常磐炭田から石炭を運び、隅田川貨物駅から船に積み替えて都心部へ。東京のエネルギーを支えた要衝だったのである。

 こうして南千住は千住製絨所やカネボウ、大日本紡績などの大規模な工場と貨物駅を中核として周囲に小さな町工場がぎっしり建ち並ぶ、典型的な“下町の工場街”になった。工場が集まればそこで働く人も集まる。彼らを当て込んだ安い酒場も増えていく。それが、今の南千住の独特な濃厚な空気感を形作っていったのだろう。

 ともあれ、そうした町工場が肩を寄せ合う下町から千住製絨所というどデカイ工場が姿を消した。跡地をどう活用するか。名乗りを上げたのは、愛知県を勢力圏とする名古屋鉄道だった。広大な工場跡地を利用してテーマパーク「明治村」を建設しようとしたという。実際に名古屋鉄道は用地取得にも成功している。ところが、他にもこの地に目をつけた男がいた。ときの大毎オリオンズのオーナーにして映画会社大映を率いる稀代のカリスマ経営者・永田雅一だ。

 当時、東京にはオリオンズと読売巨人軍、国鉄スワローズの3球団がひしめいて、いずれも後楽園球場をホームとしていた。おかげで日程も思うように組めずに難儀していたのだ。なんとか自球団の専用球場を……と思っていたところで見つけた南千住の広い土地。結局、永田雅一は名鉄から千住製絨所の跡地を取得し、1961年にスタジアムを着工。1962年の開場となったのである。

なぜわずか11年で“幻の野球場”になってしまった?

 東京スタジアムに移転して3年目の1964年に大毎オリオンズは東京オリオンズと改め、まさしく東京・下町の球団となった。が、肝心の成績は振るわず、1968年にようやく3位に入るまではずっとBクラス。

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