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ロッテ前身球団の“消えた野球場”…南千住にあった「東京スタジアム(味スタじゃない方)」今は何がある? 

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鼠入昌史

鼠入昌史Masashi Soiri

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photograph bySankei Shimbun

posted2021/01/23 17:04

ロッテ前身球団の“消えた野球場”…南千住にあった「東京スタジアム(味スタじゃない方)」今は何がある?<Number Web> photograph by Sankei Shimbun

1962年5月に開場した幻の東京スタジアム。カクテル光線も眩しく「光の球場」と呼ばれた

 だいたいこういう場合、どこかに小さな碑が置かれているものだ。だから荒川総合スポーツセンターの外周に沿ってうろついてみる。すると、何やら胸像のようなものが見えた。お、もしやこれは私財を投じて東京スタジアムを建設した永田雅一か、それともミスターロッテ有藤通世か……。と小走りで近づいたら、まったく違った。立派な像の下には「井上省三」とある。とても野球と関係ありそうには見えないこのオジサン、いったい誰なのだろうか。

 その答えは、さらに元東京スタジアム付近を歩いていると見つかった。荒川総合スポーツセンターの建物のすぐ北側には軟式野球場があって「お、ここで野球をやったら東京スタジアム気分じゃん」などと思い、荒川工業高校との間の並木道を抜けるとスーパーマーケットのライフ。その横に、レンガ造りのなんだか古めかしい壁がちょこんと建っている。そしてそれにまつわる説明書き。それによると、このあたりにはかつて千住製絨所(せんじゅせいじゅうしょ)という毛織物の官営工場があったという。明治政府初期の重鎮・大久保利通が1876年に国産羊毛を原料としたラシャ(毛織物)製造工場の設立を建議し、それに従って南千住の一角に千住製絨所が設けられた。1879年には操業を開始している。先の井上さんは、この千住製絨所の初代所長なのである。

 長州出身の井上さんはドイツに留学してラシャ製造の技術を習得、その技術をもって千住製絨所を引っ張った。が、いまひとつ軌道に乗りきらないまま、1883年に火災で焼失してしまう。井上さんを中心に復興に取り組み、1888年には陸軍管轄の工場となって、軍服などを製造する工場になったという。加えて、民間への技術指導も積極的に行い、近代以降の日本の繊維産業の発展にも大いに貢献した。つまりは我が国のアパレル産業の礎を築いたといってもいいくらいの産業遺産なのである。ところが、軍の施設だったので戦争で負けると操業停止。その後は民間事業者に払い下げられたがこちらも経営が立ち行かなくなってしまい、1960年に閉鎖されて千住製絨所は終焉を迎える。

では、なぜ南千住に東京スタジアムができたのか?

 明治初期に千住製絨所ができたころ、このあたりは特になにもないような荒れ地だったという。

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