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【引退】木村拓也、星野仙一、松坂世代…支えられたプロ18年、楽天・久保裕也が指導者として伝えたいこと
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田中大貴Daiki Tanaka
photograph byKyodo News
posted2020/12/28 17:03
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今季限りで引退を表明し、来季からは楽天二軍投手コーチに就任する久保裕也。プロ通算506試合登板、54勝37敗37セーブ113ホールド
「野球をやりたい」星野さんに直談判
――プロ生活18年。これだけの長い間、プロ野球選手を続けられたことには、いろいろな要因があると思います。パッと思い浮かぶのは何でしょう?
「長くプレーできた」という表現が、僕の中ではあまり当てはまらないんです。苦しいときもあったし、ケガもたくさん経験しました。でも、それぞれの分岐点で必ず誰か関わってくださった。木村拓也さんや内海(哲也)、星野(仙一)さんもそう。巨人時代にお世話になった原(辰徳)監督をはじめ、本当にたくさんの人に支えてもらった。それがなかったらもっと早くダメになっていたかもしれない。ずっと道を正してくれる人が側にいたことはとてもありがたいことでした。
――思い出に残る言葉、転機などはありますか?
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イーグルスでの出会いから話せば、やはり星野さんですね。ベイスターズを戦力外になった後(16年10月)、直接、星野さんに会いに行って野球をやりたいと伝えました。「お前のその気持ちは買った」という流れがあって今がある。改めて振り返ると、本当にバカなことをしたとは思うんですけど、当時はそんなことをしてまででも野球をやりたいと思えていたし、会いに行ってよかったなと思いますね。
――学生時代から久保コーチの存在を知っていますが、ワガママを言ったり、エゴを出すような印象がありません。それぐらい強い思いがあった?
ベイスターズを戦力外になったときは、ジャイアンツを戦力外になったとき(15年10月)とは状況が違いました。移籍先で1年でクビになって、年齢も30後半に差し掛かっている。トライアウトでも手応えはなく、どこからも連絡はありませんでしたから。
ただ、ジャイアンツ時代は股関節の手術をしたことで、走ることも目一杯できない時がありましたが、ベイスターズに入団してからは走る強度を上げられるようになり、手術の影響も徐々に少なくなっていました。そんな時に戦力外通告を受けたので、まだ野球をやりたいという気持ちが強くて……気がつけば、あんな行動に出ていましたね。
後輩・内海哲也からの「変えないとヤバイよ」
――トミー・ジョン手術なども経験し、育成契約(17年11月)もありました。
“山あり谷あり”。上がり下がりの激しい、安定感のない野球人生でしたね(笑)。それでもここまでやってこれたのは、先ほども言った通り、必ず誰かに支えてもらってきたからこそ。
――巨人時代の転機はありますか?
プロ入りしてから3〜4年目ぐらいまで、なんとなくトン、トン、トンときていたんですけど、2007年ぐらいから一軍で投げる機会が減って……そんな時に声をかけてくれたのが年下の内海哲也でした。「何かを変えないとヤバいよ」って。
――どんなことを言われたのですか?
当時、僕は練習嫌いだったので、そのツケがドンッときた感じ。その反面、内海は毎日のように朝早く球場入りして、しっかり自分のやることをやっていました。それに伴うように、エースとして結果も出していました。なかなか調子を取り戻せなかった僕を内海は「1回ちゃんと練習しよう」と自主トレにも誘ってくれたり。本当にありがたかったですね。
――そこから変化はあった?
もちろん、気持ちを切り替えてやっていたんですが、そう簡単に結果は出ませんでした。自分が一番悪いのに、まだ何かと人のせいにしていた部分があったんです。一軍に上げてもらえない、試合に使ってくれない、とか。自分の弱さに気づいたのもこの頃です。
「ピッチャー版・木村拓也」を目指して
――巨人時代は木村拓也さんにも影響を受けたと、以前に話してもらったことがありますね。
そうですね。タクさんには「先発も中継ぎもやれるなんて誰でもできることじゃない。お前の武器だぞ」とよく声をかけてもらっていました。それでも当時は先発にこだわっていて、タクさんが生きているときは受け入れられなかったんです。でもタクさんが亡くなって、その瞬間から「ピッチャー版・木村拓也」になると決めました。そこで人生の道筋が開けたというか、モヤモヤしていたものが完全に吹っ切れたんです。
――2010年(4月)、もう10年ですね。引退を決めた時はたくさんの方に連絡されたと思いますが、今、木村拓也さんにはどんな思いを伝えたいですか?
タクさんのお陰で僕の人生が変わったということですね。そして、タクさんみたいなマルチプレイヤーになれたかどうかわからないですけど、チームが求めるところで、どんな形であれ、使ってもらえるだけでありがたいという気持ちを持ちながらやりきることができたことは報告したい。感謝しかありません。
すぐにでもお墓参りに行きたかったんですけど、今年はこんなご時世でもあるので見送らせてもらいました。落ち着いたら、絶対に行こうと思っています。