オリンピック4位という人生BACK NUMBER
<オリンピック4位という人生(14)>
ロンドン五輪 サッカー・徳永悠平
text by
鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph byJMPA
posted2020/08/02 09:00
韓国との3位決定戦に敗れ、味方選手が倒れ込む中、ピッチを後にする徳永悠平。
アテネでは伸二さんに頼りすぎた。
決断には数週間という時間が必要だったが、最後は徳永が折れた。
《あれだけの熱意で言われたら……最後は監督のために、セキさんのためにやらないわけにはいかない。それが決め手でした》
その日から徳永はこの若いチームに自分が何を与えられるのかを考え続けてきた。頭に浮かんでいたのは遡ること8年前の、アテネ五輪のことだった。
当時の五輪代表は田中マルクス闘莉王、松井大輔、大久保嘉人らのタレントを擁し、そこにオーバーエイジとしてW杯2度の経験を持つ天才・小野伸二が加わった。監督自らが「最強メンバー」と呼び、1968年メキシコ大会以来のメダルを狙っていた。
だが、蓋を開けてみれば初戦から2連敗。グループリーグ最下位で早々と大会を去ることになった。当時、右サイドバックのレギュラーだった20歳の徳永はチームが融合することの難しさを目の当たりにした。
《気を遣ったわけではないですが、アテネの時は僕らが(小野)伸二さんに合わせ、頼ってしまった部分があったんです》
どれだけ才能を集めても、サッカーというチームスポーツはそれが足し算になるとは限らない。それが強く胸に残った。
だから世代をひとつ隔てたロンドンの代表チームに合流したとき、徳永はまず彼らの中にある見えない壁を壊し、自らこの集団のひとつのピースになろうと考えた。
《だから自分の方から「ディフェンスはどういうやり方してるの?」とか積極的に聞きにいったんです。気を遣われたり、遠慮されるのは絶対に嫌だったので》
徳永は食事のときにはテーブルを移動しながら、どの選手にも話しかけるようにした。すると次第に練習で徳永がミスをすると、冗談交じりの野次が飛ぶようになった。
「へい! しっかりやれよお!」
髪を茶色に染めた大津祐樹がそう言って笑っていた。徳永も笑って叫んだ。
「もっとこい!」「もっといじってくれ!」
潜在能力を信じ切れていない逸材。
彼らは20歳以下のW杯出場を逃したことで、ほとんど注目されていなかった。徳永にはそれが不思議だった。チームには清武弘嗣、永井謙佑らタレントがいたし、噛み合えばどんな強豪とも戦えるだけの内容を見せた。ただ、なぜかその潜在能力を自分たち自身が信じ切れていないようだった。
その典型が山口螢という選手だった。飛び抜けたボール奪取能力とパスセンスを持つボランチ。彼は茶髪にヒゲの外見とは裏腹に内向的な一面があった。チーム内でも静かなグループに属し、人見知りをした。それは時としてプレーにも反映され、才能を自ら埋蔵してしまっているように見えた。
《どの選手も持っているものは凄かった。あとは何かを掴んだという自信さえあれば、必ずやれるという手応えはありました》
徳永は、なぜ関塚が自分をこのチームに呼んだのか少しわかった気がした。