オリンピック4位という人生BACK NUMBER
<オリンピック4位という人生(14)>
ロンドン五輪 サッカー・徳永悠平
text by
![鈴木忠平](https://number.ismcdn.jp/mwimgs/b/4/-/img_b47f4d1d258178b45be2ef2032dbb72714949.jpg)
鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph byJMPA
posted2020/08/02 09:00
![<オリンピック4位という人生(14)>ロンドン五輪 サッカー・徳永悠平<Number Web> photograph by JMPA](https://number.ismcdn.jp/mwimgs/8/9/700/img_895cd5b149eab0a654274224c8f38adf152931.jpg)
韓国との3位決定戦に敗れ、味方選手が倒れ込む中、ピッチを後にする徳永悠平。
アテネでは伸二さんに頼りすぎた。
決断には数週間という時間が必要だったが、最後は徳永が折れた。
《あれだけの熱意で言われたら……最後は監督のために、セキさんのためにやらないわけにはいかない。それが決め手でした》
その日から徳永はこの若いチームに自分が何を与えられるのかを考え続けてきた。頭に浮かんでいたのは遡ること8年前の、アテネ五輪のことだった。
ADVERTISEMENT
当時の五輪代表は田中マルクス闘莉王、松井大輔、大久保嘉人らのタレントを擁し、そこにオーバーエイジとしてW杯2度の経験を持つ天才・小野伸二が加わった。監督自らが「最強メンバー」と呼び、1968年メキシコ大会以来のメダルを狙っていた。
だが、蓋を開けてみれば初戦から2連敗。グループリーグ最下位で早々と大会を去ることになった。当時、右サイドバックのレギュラーだった20歳の徳永はチームが融合することの難しさを目の当たりにした。
《気を遣ったわけではないですが、アテネの時は僕らが(小野)伸二さんに合わせ、頼ってしまった部分があったんです》
どれだけ才能を集めても、サッカーというチームスポーツはそれが足し算になるとは限らない。それが強く胸に残った。
だから世代をひとつ隔てたロンドンの代表チームに合流したとき、徳永はまず彼らの中にある見えない壁を壊し、自らこの集団のひとつのピースになろうと考えた。
《だから自分の方から「ディフェンスはどういうやり方してるの?」とか積極的に聞きにいったんです。気を遣われたり、遠慮されるのは絶対に嫌だったので》