#1005

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「どうすればよかったのか」サッカー・徳永悠平が悔やむ韓国との“3決”と「山口蛍の覚醒」《連載「オリンピック4位という人生」2012年ロンドン》

2024/08/16
ロンドン五輪でサッカー日本代表として4位になった徳永悠平
'04年アテネ五輪、イタリア代表デロッシと交錯し、負傷交代で涙を飲んだDFは8年後、オーバーエイジ枠で再び五輪の舞台にその足を踏み入れていた―。(初出:Number1005号2012ロンドン「“勝利の使者”が得た光」オリンピック4位という人生)

 あの日、自分たちには他に何かできることがあったのだろうか。徳永悠平には今もそう問い続けるゲームがある。

《あの韓国戦、自分たちはどうすればよかったんだろう。もっと別の戦い方をすべきだったのかとも考えますし、あれしかなかったとも思います。難しかったなあ……。何度考えても答えは出ないんです》

 徳永はプロサッカー選手として550を超える公式戦のピッチに立ってきた。多くの場合、勝敗にはある程度の明確な要因があり、それを整理して自分を納得させることさえできれば、あとは忘却して前に進めばよかった。ただあのゲームに関してはなぜか、何年経っても同じ思考をぐるぐる巡らせるより他ないのだ。

 2012年8月9日。ロンドン五輪のサッカー日本代表はウェールズの首都・カーディフにいた。翌日にはその地でメダルをかけた韓国との3位決定戦を控えていた。

韓国との3位決定戦に敗れ、味方選手が倒れ込む中、ピッチを後にする徳永悠平 ©JMPA
韓国との3位決定戦に敗れ、味方選手が倒れ込む中、ピッチを後にする徳永悠平 ©JMPA

 試合会場となるミレニアム・スタジアムでボールを蹴りながら、徳永はある感慨に浸っていた。5つ以上も年下の選手たちと駆け抜けてきた軌跡についてである。

 大会前はほとんど期待されていなかったチームが、日本サッカーにとって44年ぶりとなるメダルをかけた舞台に辿り着いた。

 それは徳永が思い描いていた通りの急激な上昇曲線であり、特別な立場で加わった自分が、このチームに何かをもたらすことができた証のようにも思えた。

「オーバーエイジ枠として五輪代表に加わってもらいたい」と打診を受けたのは、およそ2カ月前のことだった。 五輪代表監督の関塚隆から電話があった。「とにかく会って話がしたいんだ」と関塚は言った。

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photograph by Takashi Shimizu/JMPA

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