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引退・狩野健太、昔はよく泣いてた。
天才ゆえに苦労したJリーグ15年。 

text by

安藤隆人

安藤隆人Takahito Ando

PROFILE

photograph byJ.LEAGUE

posted2020/07/14 08:00

引退・狩野健太、昔はよく泣いてた。天才ゆえに苦労したJリーグ15年。<Number Web> photograph by J.LEAGUE

キャリアハイの数字を残した2009年シーズン。美しいプレースタイルが印象的だが、その裏では怪我との孤独な戦いがあった。

戻らなかった右足の感覚。

 怪我との戦いはまだまだ続く。翌'14年はコンスタントに出番を得ていたが、無理がたたったのか、右足の距骨(かかとの上、足首の奥にある骨)を骨折する大怪我を負い、半年の離脱を強いられ、後半戦を棒に振る。ようやく完治した日、久しぶりにボールを蹴ると、とてつもない違和感を覚えた。

「2つの怪我の連続で右足首の可動域が狭くなった。左足のキックの際に右足での踏み込みが甘くなってしまって姿勢が安定しない。右にターンする時も、足首の可動域が狭いので素早いターンができずに、前を向いた時には思い描いていたパスコースが消えてしまったり……。自分の感覚とプレーにズレが生じ始めました。それに……やっぱり右足のかかとの痛みが消えなかった。右足首の甲を下に伸ばしても、上に伸ばしても、かかとに痛みが走る。この痛みが気になって、プレーの精度が落ちていくのが歯痒かったですね」

 本調子から遠ざかった狩野は、3年在籍した柏を離れ、新天地をリーグ初優勝を目指す川崎フロンターレに求めた。だが、彼の足首は自由にプレーすることを許さない。

「今だから言えるんですが、'12年頃からフロンターレの最後の年となった'17年までの6年間、毎日痛み止めの薬を飲んでいました」

 期待に応えられぬまま、契約満了が告げられた。

「我慢の限界」と感じたオフに精密検査をすると、除去したはずのネズミの一部が右足くるぶしの内側の腱に入り込んで引っかかっていた。これがずっと狩野を悩ませ続けた痛みの原因だったのだ。すぐに再度除去手術を行ったが、6年間に渡って庇い続けた右足首の負担への代償はあまりにも大きい。「もっと早くに除去しておけば……」。その後の徳島でのキャリアでも、前述した怪我もあって目立った活躍はできなかった。

家族のために、すべてを妻にぶちまけた。

「現役を続けている以上、人に弱みを見せたくなかったし、期待を裏切りたくなかった。そう思うあまり『自分らしいプレーをするために何をすべきか』を常に考えながらプレーしていたんです。調子がいい時って、何も考えずにやれているんです。それを自分で阻害してしまった。もっと素直に周りにさらけ出していたら、もっと違う人生になっていたのかなと思いますね」

 いつしか「天才」でいることが、自分のあるべき姿になっていた。本当の自分を隠しながら、周囲が、何より自分自身が期待する姿を追い求めた。だが、そこから解放してくれたのは、家族の存在だった。

 昨年11月に次男が生まれた。「引退」の2文字が現実味を帯びたのはそんなときだった。これまで家族にすら一切の弱みを見せてこなかったが、「契約もなくなって、新たなクラブも見つからない状態。今後のことを話さないといけない」と、これまでの思いをすべて妻にぶちまけた。

「『俺は鉄人だから』とずっと言っていたんですけど(笑)、実際に『イメージ通りにプレーできない』、『引退しようか迷っている』と、これまでの自分だったら絶対に言わなかったことを全部ぶちまけたんです。そしたら、妻が凄く嬉しそうだったんです。たぶんすべてわかっていたのだと思います。でも僕から言い出すまで、我慢というか、ずっと気遣ってくれていたんだなということがわかりました。『そんなに無理しなくてもいいんじゃない』と言われたことで抱え込まなくていいんだって心が楽になったんです」

 孤独な時間を過ごしてきたが、最後の最後に、最も信頼のおける家族の前で弱みを認めたことで、自らの道が切り開かれた思いだった。

【次ページ】 「継続することの大切さ」

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