“ユース教授”のサッカージャーナルBACK NUMBER
引退・狩野健太、昔はよく泣いてた。
天才ゆえに苦労したJリーグ15年。
text by
安藤隆人Takahito Ando
photograph byJ.LEAGUE
posted2020/07/14 08:00
キャリアハイの数字を残した2009年シーズン。美しいプレースタイルが印象的だが、その裏では怪我との孤独な戦いがあった。
静学10番。負けてよく泣いていた。
静岡県静岡市というサッカーどころで生まれ育った狩野は、その中でもエリート街道を突っ走ってきた。ボールコントロールに長け、高いキープ力と鮮やかなパスでゲームを組み立てるエレガントなプレースタイルは、どのチームでも際立った。
小学生時代から名門・静岡FCでタイトルをほしいままにし、中学は澤登正朗、川口能活、高原直泰、鈴木啓太ら錚々たるOBを輩出してきた東海大一中(現・東海大翔洋中)に進学。中3時には10番をつけてチームを高円宮杯全日本ユース(U-15)準優勝に導いている。
狩野の名前を一躍全国区にしたのは静岡学園高校時代だ。1年生からレギュラーの座を掴み、2年のうちから10番を託された。
整った顔立ちもあってか、ボールを持った時には異質なほど気品が感じられる。正確なコントロールに、「そこが見えているのか」と驚かせるパスを出す。セットプレーでのキックの精度もピカイチだった。谷澤達也(藤枝MYFC)、安藤淳(京都サンガ)、小林祐三(サガン鳥栖)ら錚々たる上級生の中でも、1年生が見せたエレガントなプレーは突出していた。
一方で、記憶に残っているのは涙を流している姿だ。飄々とプレーしているように見えて、試合に負けた時は心から悔しそうな表情を見せ、よく泣いていた。天才的なプレーをするが、サッカーに対する熱い思いを包み隠さず見せられる選手。とても魅力的な存在だった。
キャリアハイは2009年、28試合に出場。
2005年に大きな期待を背負って横浜F・マリノスに入団。2年目から高い技術に加え、ゲームメイク力が磨かれ、頭角を現した。'08年にはJ2降格のピンチに瀕していたチーム状況の中で、シーズン途中に就任した木村浩吉監督に抜擢されると、第25節のジュビロ磐田戦からスタメンに定着。チームはそこから6戦で3勝3分けと負けなし。その後は勝利に結びつくゴールを奪うなど、残留に大きく貢献した。
翌'09年にはリーグ28試合出場、4得点。「ついに天才が覚醒か」と周囲は期待したが、いま振り返ると、この結果が狩野にとってのキャリアハイの数字となった。
そつのないプレーは、時に“器用貧乏”と捉えられることもあり、ベンチを温める時間が増え、スタンドから試合を見つめることも多くあった。それでも狩野は腐らずにコツコツとキャリアを積み重ねていく。しかし、プロ8年目の'12年、狩野のサッカー人生を大きく揺るがす出来事が起こった。
練習中に負った右足首の捻挫に、ネズミ(軟骨や骨の欠片)が発生した。当時は原因もわからず、捻挫が治ってからもずっと痛みが残った。
「ちょうどベンチ外も増えてきたことで危機感が勝り、誰にも『痛い』と言い出せなかった。無理をすればするほど、どんどん自分の思うようなプレーが出来なくなっていったんです」
この年、リーグ戦出場はわずかに「4」。スタメンは1試合もなかった。
心機一転、翌'13年は柏レイソルに移籍を果たした狩野はこの年リーグ戦出場18試合、うちスタメン14試合と復調の兆しを見せた。だが、痛みをごまかしながらのプレーから抜け出せず、その年のオフに除去手術を決断。「これでもう思い切りプレーができると思った」が、それでもプレーをする度に、右足のかかとにわずかな痛みが残る状態が続いた。