ツバメの観察日記BACK NUMBER
ヤクルトに名匠の教えをもう一度。
野村克也、関根潤三が遺したもの。
posted2020/06/18 11:00
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph by
L:Kyodo News R:Kazuaki Nishiyama
今年は東京ヤクルトスワローズにとって、特別なシーズンとなる。2月に野村克也さんが、そして4月には関根潤三さんが急逝された。昭和から平成にかけてチームを率いた元監督が天に召された。ファンにとっては実に悲しい知らせが、開幕前に相次いで舞い込んだのだ。
関根さんが監督を務めていたのは1987(昭和62)年から、'89(平成元)年までの3年間だった。そして、それを受けて翌'90年から'98年にかけて監督となり、ヤクルトに黄金時代をもたらしたのが野村さんだった。
スワローズ70年の歴史を振り返ると、関根監督から野村監督へと移り変わったあの頃は、まさにチームの変革期であり、転換期でもあった。後に『一勝二敗の勝者論』や、『若いヤツの育て方』という著作を発表する関根さんが、才能はあるもののまだまだ粗削りな若手選手を辛抱強く起用し続けた。すべてはチームを変えるためであり、その代表例が当時売り出し中の池山隆寛だった。
関根から野村へ。亡き名匠の教え。
「ホームランか、三振か」という豪快なスイングが持ち味で、「ブンブン丸」と呼ばれた池山は、関根監督が就任した'87年には112三振、'88年には120三振、'89年には141三振を喫している。それでも、関根監督は何ひとつ注文を出すことなく、自由に打たせたという。生前の関根さんにこのときの心境を尋ねたことがある。関根さんはひょうひょうとした口調で、こんなことを語った。
「三振? だってしょうがないじゃない、三振するんだから。それを怒ったってしょうがないからね。もちろん、“ちょっと三振が多いなぁ。どうすっかなぁ”ってことは考えたよ。だけど、すぐにうまくなるもんじゃないからね」
後に池山本人にも当時のことを尋ねたが、「関根さんには何も言われず、本当に自由に打たせてもらった」と語っていた。このときに小さく矯正されることがなかったからこそ、池山は球界を代表するスター選手となったのだ。
この池山を筆頭に、関根監督時代に経験を積んだ若手選手たちが、続く野村監督時代に「ID野球」を授けられたことで、'90年代のヤクルトはセ・リーグ優勝4回、日本一には3度も輝いたのである。関根から野村。この流れが、当時のヤクルトにはまさにベストだったのだ。