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タイガーマスクがもたらした功罪。
4月23日の衝撃デビューと負の遺産。
text by
原悦生Essei Hara
photograph byEssei Hara
posted2020/04/23 19:00
1981年4月23日、蔵前国技館。タイガーマスクvs.ダイナマイト・キッド戦。この日、日本プロレス界に革命が起こった。
どうしても初代と比較してしまう……。
本人から「虎のマスク」、NWA(ナショナル・レスリング・アライアンス)とWWF(ワールド・レスリング・フェデレーション)の2本のジュニアヘビー級のベルトが新日本プロレスに返上された。
こうしてタイガーマスクは素顔の佐山聡に戻り、衝撃的なデビューから始まったタイガーマスク・ブームは2年4カ月目にして突然、幕を閉じることとなった。
その後、新日本プロレスに出現したザ・コブラ(ジョージ高野)や全日本プロレスの2代目タイガーマスク(三沢光晴)も初代タイガーマスクの「負の遺産」を引き継ぐことになった。
初代の凄さと絶頂で消えてしまったことによる増幅した幻影が、ポスト・タイガーマスクたちを悩まし続けたのである。ファンは幻影を追いかけて、新しい存在をいつも否定しようとしたのだ。
ファンはどうしても初代タイガーマスクと比較してしまうのである。団体が無理やり次のキャラクターを売り出そうとしたビジネス面での姿勢も反感を買った理由の1つだろう。初代と同じではダメなのだ。遥かに初代タイガーマスクを上回らなければ、次のスターの誕生は決して許されないのである。事実、三沢タイガーですらファンは受け入れなかった。今ではカリスマ化しているあの三沢でさえ、ファンから支持されるたのは虎のマスクを自ら脱ぎ捨ててからだったのである。
そして獣神サンダー・ライガーが新時代を。
初代タイガーマスクがそこまで脚光を浴びた理由は何だったのか?
新日本プロレスでデビューして、マーシャルアーツの打撃戦を体験して、ルチャリブレの世界にも身を置いた。英国でもかなりの評価と人気を得るまでになっていた。だが、佐山はルチャのパターン化した動きは好きではなく、自分で開発した意外性のある動きでファンの心を掴んだ。そして、プロレスの先に猪木が語っていた新しい格闘技を夢見ていた。
ジュニアヘビー級という世界で、タイガーマスクを超えるために必要なこと、それが独創性であり、その存在を堂々と示すことだと気づくには時間を要した。それほど長い間、みんなが初代の幻影にとりつかれていたのである。
そして……1989年4月24日、東京ドームで獣神ライガーがデビューする。
本人の意気込みとは対照的に、当時のライガーもマスクマンとしてそれほど期待はされていなかった。だが、唯一無二の獣神サンダー・ライガーは圧倒的に力強くてカッコよく、新しいジュニアヘビー級の世界を築いていくことになる。