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獣神サンダー・ライガー爆誕秘話!
藤原喜明、船木誠勝らと運命の出会い。
posted2020/04/24 19:00
text by
原悦生Essei Hara
photograph by
Essei Hara
実は、筆者の中では「獣神サンダー・ライガー」と「山田恵一」に境目がない。“ライガー”と呼んだ期間の方が長いのであるが、ライガーと口にしながら、山田の顔が浮かんでいることがよくあるのだ。それは、こちら側の勝手な思い込みにしか過ぎないのだけれど――。
新日本プロレス入団前の山田はプロレスラーになりたがってはいたが、体のサイズが当時の新日の入門規定に満たなかった。階級制のあるメキシコなら自分でもプロレスラーになれると思った山田は1983年、単身メキシコに渡る。どうやら、その昔メキシコに渡ってプロレスラーになっていた同じような境遇の「マッハ隼人(カブキ、トーキョー・ジョー)」という選手を参考にしたようだった。
メキシコで“エンプレッサ”と呼ばれていた団体EMLL(現CMLL)系のトレーニング・ジムで山田は“ルチャドール”になることを目指して練習を始めた。この選択は良い結果を導くことになった。
“小さな巨人”グラン浜田と会うことができたからだ。
メキシコでの運命の出会いとマス釣り。
浜田は1972年の新日本プロレス旗揚げから、浜田広秋(リトル浜田)として戦っていたが、1975年メキシコに旅立ち、そのキレのいいファイトで現地においてブレイクしていた。UWAのミドル級のチャンピオンにもなっていて、1978年からは新日本プロレスのシリーズにも凱旋してペロ・アグアヨらと好勝負を見せるほどの活躍を見せていた。
浜田は、山田が「オレにもできるのではないか」と思ったマッハ隼人よりメキシコで実績を残した男だ。メキシコ中のプロモーターから引っ張りだこで、日曜日には3、4試合をこなすほどの人気レスラーだった。
山田はメキシコシティの旅行会社で働いていた人の紹介で、浜田と会うことができたそうだ。当時、シティを東西に横断する大通りパセオ・デ・ラ・レフォルマに面した高層アパートの15階にあった浜田の家では、よく麻雀大会が行われていて、その旅行会社の社員もそのメンバーだったという幸運があった。
山田はそこで浜田と会って、彼が大好きだというマス釣りに誘われる。早起きしてはいそいそと湖に出かけていく浜田と一緒に、山田は釣り糸を垂らすことになった。