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タイガーマスクがもたらした功罪。
4月23日の衝撃デビューと負の遺産。
text by
原悦生Essei Hara
photograph byEssei Hara
posted2020/04/23 19:00
1981年4月23日、蔵前国技館。タイガーマスクvs.ダイナマイト・キッド戦。この日、日本プロレス界に革命が起こった。
「投げは禁止」のはずだったが……。
猪木がリングサイドにいた。セコンドは山本小鉄だった。
2分6ラウンドのマーシャルアーツ・ルール。
両者とも大きめのボクシンググローブをつけての戦い。投げは認められず、寝技は禁止で、本来はキックとパンチで戦わなくてはいけない試合だった。
それでも、佐山はプロレスラーらしくコステロに組み付くと、レフェリーが制止するのも構わず、抱えては投げた。腹を合わせて反る“ベリー・トゥー・ベリー”のスープレックス。そしてバックドロップ……佐山はただただがむしゃらに組み付いては投げにいっていた。後から聞くと、本人は「頭から落とせば勝てるだろう」と思っていたのだという。
最初に投げ技が出た時は「これで決まった」と思った。だが、コステロは猫のように柔らかく受け身をとると、何事も無かったかのようにスクッと立ち上がってきた。場内に驚きの声が上がった。
その後に続いた投げも同じように効果がなかった。実は……コステロはレスリング経験者で受け身に長けていたのだ。
マーシャルアーツ選手に対して完敗した佐山。
そして……打撃戦へ。
佐山はキックボクシングの「目白ジム」で特訓してきたローキックやパンチを繰り出したが、長身のコステロのヒザや左のパンチがそれを上回った。天才的な運動能力を持っていた佐山でも、数カ月の打撃練習では世界トップレベルの選手にダメージを与えることは難しかった。
結局、劣勢の佐山はダウンを繰り返すことになる。
佐山は、ロープ際で崩れ、あるいはヒザをついていてほとんどTKO状態だったが、最終ラウンドもどうにか持ちこたえて、判定まで持ち込んだ。
もちろん、完敗だった。