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タイガーマスクがもたらした功罪。
4月23日の衝撃デビューと負の遺産。 

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原悦生

原悦生Essei Hara

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photograph byEssei Hara

posted2020/04/23 19:00

タイガーマスクがもたらした功罪。4月23日の衝撃デビューと負の遺産。<Number Web> photograph by Essei Hara

1981年4月23日、蔵前国技館。タイガーマスクvs.ダイナマイト・キッド戦。この日、日本プロレス界に革命が起こった。

メキシコとイギリスで急成長していた佐山聡。

 1978年6月、“ルチャリブレの国”メキシコに渡った佐山はエンプレッサ(EMLL=現CMLL)と呼ばれたNWA系のリングにサトル・サヤマの名で上がっていた。

 私は1978年8月、藤波辰巳の試合に合わせてメキシコシティを訪れたが、勢いのあった新興団体UWA系の取材が主で、佐山には現地で3度も会って話もしたが、その試合は一度も見なかった。いま思えば……せめて一度でいいから見ておけばよかったと思う。

 夜遅くアラメダ公園前のホテルに藤波を訪ねてきた佐山は「ちょっと横にならせてください」と床に寝ころんだ。なんでも、その日の試合でトペを放ったところ、場外の固定のイスに強く腰を打ちつけてしまったというのだ。

「痛いんですよ」佐山は苦しそうに顔をゆがめた。

 筆者の目の前でこそ弱音を吐いた佐山だったが、結局メキシコではNWAミドル級王者にもなるほどの活躍を見せた。

 そして1980年、メキシコから英国に渡って、今度は「サミー・リー」を名乗った。リーはブルース・リーのリーだ。佐山は英国では相当自由に戦うことができたようだ。そのカンフーのようなファイトスタイルと、マーク・ロコ(当時のイギリスの人気レスラー。後に初代ブラック・タイガー)とのライバル抗争で人気を博していたが、突然、日本に呼び戻されることになる。

ストロングスタイルの新日にアニメキャラは不要!?

 1981年4月23日。テレビアニメ「タイガーマスク二世」のスタートに合わせて主人公の「タイガーマスク二世」が新日本プロレスのリングに上がることになった。もちろん、タイガーマスクの中身は非公開だった。

 正体以前に「ストロングスタイルの新日本プロレスにアニメのキャラクターは必要ない」という声が多くあったことを覚えている。

 さらに残念なことに、肝心な覆面レスラーの命であるマスクさえ、準備が整っていなかった。

 急造の陳腐な虎のマスクと、これもまた羽織るのが恥ずかしくて躊躇してしまうような薄っぺらなマントで、タイガーマスクが花道に姿を現すと、蔵前国技館のファンからは失笑が漏れた。

 新日本プロレスとしては大失態だった。セコンドにはメキシコで一緒だった木村健吾がついた。仕掛人の新間寿はリングサイドで心配そうにこの試合を見ていた。

 だが、そんなタイガーマスクとダイナマイト・キッドの試合が始まると、ファンの苦笑いは真顔に変わっていった。

【次ページ】 全国的に大ブームとなったタイガーマスク。

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