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タイガーマスクがもたらした功罪。
4月23日の衝撃デビューと負の遺産。
posted2020/04/23 19:00
text by
原悦生Essei Hara
photograph by
Essei Hara
タイガーマスクが新日本プロレスのリングでデビューしたのは、1981年4月23日、蔵前国技館だった。あれから39年経った。
あの日、タイガーマスクは実は周囲からそんなに期待されていなかった――と言ったら、多くの人は不思議に思うかもしれない。しかし、事実、タイガーマスクは期待されていなかったし、ファンにも受け入れられないんじゃないかという不安視する見方が大半だったのだった。
新日本プロレスも「IWGP(インターナショナル・レスリング・グランプリ)」という大きなプロジェクトに向けて邁進している時代で、劇画やテレビのアニメ番組の主人公がプロレスのリングで実際に戦うというプランは、そんなに重要な位置づけではなかったのだ。
今では、タイガーマスクが佐山聡(サトル)だったことは、ファンなら知っているが、その頃は「佐山」と言ったところで、当人の顔を思い浮かべることができる人はかなり限られていた。記事中で誤って「トオル」と書いてしまったスポーツ紙があったほど、知られざる存在だったのだ。
全米マーシャルアーツ1位との対決。
小柄な佐山聡が新日本プロレスでデビューしたのは1976年の5月だ。前座の試合は見ているが、決して目立った存在ではなかった。
その後、佐山が少しだけ注目を浴びたのが、1977年11月14日に日本武道館で行われた「格闘技大戦争」という梶原一騎の名のもとに行われた格闘技イベントでのことだった。19歳の佐山はアントニオ猪木に指名された形で、ミドル級1位で21歳のマーク・コステロ戦に臨むことになる。
アメリカではマーシャルアーツ(WKA=全米プロ空手)が大ブームで、その筆頭がベニ―・ユキーデというライト級のチャンピオンだった。ベニーはロサンゼルスに「ジェットセンター」という大きな道場を構えており、盛況だった。他にも、ヘビー級王者にはザ・モンスターマン・エディがいて1977年8月に猪木と格闘技世界一決定戦を行っているくらい、マーシャルアーツ人気は高かったのだ。
あの佐山が格闘技戦に挑むのか――筆者は当時まだ学生だったが「猪木の弟子で佐山っていうのがいるんだ」と友人たちを誘って、日本武道館に出かけたのを覚えている。