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キルギス戦までに見えた、森保一の
ノーマルフットボールとリアリズム。
posted2019/11/15 11:50
text by
田村修一Shuichi Tamura
photograph by
JFA/AFLO
日本代表監督・森保一は極めて謙虚な人間である。発する言葉も常にすべてに対する配慮が行き届き、メディアにも突っ込む余地を与えない。理にかなってはいるが、イビチャ・オシムのように言葉に強い力があるわけではない。それが彼に地味なイメージを与えている。
だが、ピッチの上で彼が実践しているサッカーは、決して謙虚でも地味でもない。むしろ人間・森保一とは真逆の大胆でアグレッシブな彼の思考を具現化しているのだが、森保自身の言葉だと謙虚さと配慮のフィルターがかかってしまい、とても正確には伝わっていないのが現状である。
では森保のサッカーの特徴はどこにあるのか。
ひとつは筆者が「ノーマルフットボール」と名づけた、トップレベルのサッカー基準の平準化であり、もうひとつが「徹底したリアリズム」である。前者に関しては説明を要するが、イデアリズムとリアリズム――相反するふたつの要素が矛盾なく並び立っているところに、人間・森保一ではない監督・森保一の凄みがある。
まず、ノーマルフットボールとは何を意味するのか。
何の要素も強調しない森保サッカーの真髄。
モダンサッカーの起源は、1970年代初頭のリヌス・ミケルスとヨハン・クライフによるトータルフットボールに直接的に遡る。
彼らが具現した全員攻撃・全員守備のスタイルはまさにサッカーにおける革命であり、その後のサッカーはトータルフットボールの前提なしには成立し得なくなった。プレスの概念しかり、戦術的ディシプリンしかり。そうした要素の一部分(ないし全体)を強調し、拡大再生産ないし復興することで、その後のサッカーは発展してきたともいえるのだった。
森保は、モダンサッカーのすべてを何も強調しない。
何も強調せずに、コンセプトという名のベースに落とし込むところに、彼の最大の特徴がある。
すべてをさりげなく普通に。
革命ではなく日常化。
これはなかなか出来ることではない。監督は誰もが自分が具現化するサッカーの独自性を強調したがる。それが人間の性であり、監督を生業とするものとしては極めて自然な姿であるからだ。