Jをめぐる冒険BACK NUMBER
オシムが先取りしていたクロップ流。
当時最強の磐田を翻弄した策とは。
posted2019/05/09 10:30
text by
飯尾篤史Atsushi Iio
photograph by
Getty Images
タイトルの懸かった試合ではないし、劇的な幕切れを迎えたわけでもない。
この年、いずれかのチームがリーグタイトルを手にした、というわけでもない。
ともすれば歴史に埋もれかねないゲームだが、内容は間違いなく当時のJリーグにおける最高峰――。この一大スペクタクルを、どうしてセレクトせずにいられようか。
2000年に鹿島アントラーズが前人未到の三冠を達成し、2001年には鹿島とジュビロ磐田による三度目のチャンピオンシップが実現。そして、2002年に磐田が初の完全優勝を成し遂げ、Jリーグは鹿島と磐田の2強時代のまっただなかだった。
だからシーズン前の注目は、元日本代表監督の岡田武史を迎え入れた横浜F・マリノスが、この2強の牙城を崩せるか、にあった。
ところが、2003年シーズンの幕が上がると、思わぬ伏兵が主役の座に躍り出る。
イビチャ・オシム監督率いる、ジェフユナイテッド市原である。
「ストーミング」的なオシム戦術。
1990年イタリア・ワールドカップでユーゴスラビア代表をベスト8に導いたオシム監督は、名古屋グランパスの「ピクシー」ことドラガン・ストイコビッチが、最も影響を受けた指導者として、その名をあげるほどだった。
開幕当初は選手を徹底的に鍛えるスパルタ指導と、シニカルで哲学的な物言いが注目されたが、すぐにオン・ザ・ピッチにも関心が集まるようになる。
鋭い出足で相手に襲い掛かり、その勢いのまま前線へ。後方から人が溢れんばかりに飛び出すスタイルは、現代風に言えば「ストーミング」。まるで津波のようなアタックで、相手チームを飲み込んでいく。
「勝ち負け以上に大切なものがある」
オシム監督はよくそう言って、スタジアムに足を運んだサポーターに質の高い試合を見せることの重要性を説いたが、その言葉に説得力があったのは、この頃の市原が内容と結果、その両方を得ていたからだ。