ファイターズ広報、記す。BACK NUMBER
日本ハム、唯一の永久欠番「100」。
今も残る大社義規オーナーの愛と熱。
text by
高山通史Michifumi Takayama
photograph byKyodo News
posted2018/06/22 11:30
大社義規氏(左)は徳島の食肉加工工場から出発。'63年に日本ハムを設立し、トップメーカーに成長させると、'73年にはプロ野球に参戦した。
お金は出しても、口は出さないタイプ。
表現は乱暴だが「お金は出しても、口は出さない」方だったという。激務の合間を縫っては、足繁く球場へと足を運び、試合を観戦していたという。会食などで中座せざるを得ないケースは、側近の方々を通じて経過をチェックしていたそうだ。
当時はBクラスの常連だったが、選手に対して嘆くことも、注文を付けることもなかったという。いつでも、どんな試合でも楽しそうに、目を細めていたとのことである。
晩年は、老衰のため物忘れも多々あったが、選手と対面すれば、その名前だけは明確に記憶していたことも多かったそうである。
数々の逸話が残され、大社氏に触れた方々が語り部となっている。3月末で球団代表を退任、新球場建設構想に際して設立された株式会社北海道ボールパーク(HBP)の取締役に就任した島田利正氏。昔話をできる、1人である。通訳として入団して、球団の要職を歴任して39年間、務め上げた。
大社氏の横顔。日本ハム本社内の式典に出席すると、帰り際には社員の方々が人垣で作る花道ができたという。
チームに怒ったのを見たことがない。
島田氏は、スーパー・カリスマの在りし日を回想する。
「日本ハム本社の社員にはすごく厳しい方だと、周りの人たちからは聞いていました。ただ選手、チームには別人のように優しかったと。本社の社員たちが『どうして球団には、あんなに優しいの』と言っていました。チームに対して、怒ったところは見たことがないんですよね」
その「先代」は1915年、大正4年に生まれた。誕生日は2月1日。プロ野球のキャンプインと重なっていた。用意されたケーキと、選手たちを含むチームに祝福されながら、プロ野球の正月とも言われるバースデーの1日を楽しんでいたという。