ぶら野球BACK NUMBER
佐々木主浩、高津臣吾の無名時代。
「歴代名クローザーの原点」を読む。
posted2017/06/27 07:00
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph by
Kazuaki Nishiyama
野球界で最もハードな仕事はなんだろうか?
個人的には「クローザー」だと思う。
投げる試合のほとんどで自チームの勝敗が懸かった場面でマウンドへ上がる。毎日が絶対に負けられない戦い。しかも抑えて当たり前、逆転負けでも食らったら親の仇のように叩かれる。正直、そんな労働環境は俺には無理だ。想像するだけで腹が痛くなってくる。身体的にも精神的にもこれほどタフな仕事はないだろう。
例えば、巨人では西村健太朗や澤村拓一といった面々が最多セーブのタイトルを獲得しているが、数年ごとに故障や不調でその座を交代し、今季のクローザーは新助っ人のアルキメデス・カミネロが務めている。
これだけ継続して活躍するのが難しいポジションで、日本球界を代表する抑え投手として長年君臨したのが佐々木主浩と高津臣吾である。
それぞれ1990年代初頭にプロ入りし、セ・リーグでしのぎを削り、ともに2000年代にはメジャー移籍。ちなみに'68年2月生まれの佐々木は5度、'68年11月生まれの高津は4度の最優秀救援投手のタイトルを獲得している。まさに同時代を生きた男たち。
今回の『ぶら野球』では彼ら伝説のクローザーの著書を読み解いてみよう。
レジェンド化した高津の、無名時代を知っているか?
【『ナンバー2の男』(高津臣吾/ぴあ株式会社/2004年4月27日発行)】
日本で286セーブ、メジャーで27セーブの日米通算313セーブを記録した高津。
その輝かしいキャリアをテレビやスポーツ新聞で追っていたファンは多いだろう。
だが、そこに辿り着くまでの過程、例えば無名のアマチュア時代を知るファンは少ない。彼はいかに名クローザーへと登り詰めたのか。ホワイトソックス移籍直後の'04年春に出版した本書には、日本で過ごした野球人生を総括するような形で、その知られざる高津臣吾の原点が記されている。
広島で生まれ育った高津は広島市民球場に通う野球少年。もちろん将来の夢はカープのユニフォームを着て投げることだ。
「憧れのスタジアムは広島市民球場。甲子園か市民球場か、どっちかで試合をさせてやると言われたら、ためらうことなく市民球場を選びますよ」
死にたいくらいに憧れた山本浩二や衣笠祥雄の背中。
まさにガチのカープ男子である。