ぶら野球BACK NUMBER
佐々木主浩、高津臣吾の無名時代。
「歴代名クローザーの原点」を読む。
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph byKazuaki Nishiyama
posted2017/06/27 07:00
プロ入り3年目シーズンの1992年。抑え投手としてシーズンを通して大活躍した佐々木。この年は最優秀救援投手として、初タイトルを獲得した。
大学でも2番手だったが、そこで自分の道を見つけた。
「入学した頃から技術では小池の方が上だったけど、近いところを走っていたはずなのに、気づいた時にはバーッと差をつけられちゃった感じなんですよね。でも、その頃にはボクも、自分のことをレベルの低いピッチャーだとは思っていなかった。大学野球は3回戦制なので、2番手に入っていれば先発のチャンスがある。その位置はずっとキープしたいと思ってました」
まさに本書のタイトルにもなっている『ナンバー2の男』の真骨頂というわけだ。
エースの背中を見て、自分に何が足りていないのか見極める。現実と向き合うことから逃げがちな無力な若者には酷な作業だ。ある種のハートの強さが求められる。大学2年の時にアンダースローからサイドスローへと転向した高津は、決め球シンカーを習得。ついに飛躍の時を迎えようとしていた。
東都大学リーグで春秋連覇も飾り、'90年ドラフトではヤクルトから3位指名を受ける。
その後のキャリアはご存知の通りだ。
常に誰かの背中を見て“ナンバー2の男”と自らを定義した男は、やがてメジャーリーグで24試合連続無失点を記録して“ミスターゼロ”と呼ばれるようになるのだから、人生は分からない。
レジェンドの高津にさえ「人間の枠を越えている」と。
【『奮起力。人間「佐々木主浩」から何を学ぶのか』(佐々木主浩/創英社・三省堂書店/2010年4月5日発行)】
NPB歴代2位のセーブ数を残した高津が、自身の本の中で「ちょっと人間の枠を超えてしまったような存在」とまで称賛する投手がいた。
佐々木主浩である。
同業者で学年も近い高津から見ても「ストレートは速いし、フォークは消える。同じピッチャーとしては、すごすぎて参考にはならない」大魔神の全盛期。伝家の宝刀フォークボールを武器にNPB252セーブ、MLB129セーブの日米通算381セーブの金字塔。横浜が38年ぶりの優勝に輝いた'98年は51試合で45セーブを挙げ、驚異の防御率0.64でMVPと正力松太郎賞をダブル受賞。横浜駅東口の地下街には「ハマの大魔神社」まで作られるフィーバーぶり。'00年からシアトル・マリナーズへ移籍。そこでもいきなり37セーブでア・リーグ新人王を獲得すると、翌'01年にも日本人最多記録の45セーブをマーク。オールスターにも出場した。
あらゆる面で規格外の佐々木だったが、若手時代は野球とは別のところで規格外の選手だった。引退後の2010年に発売された著書『奮起力』では、もう時効だから的に数々の豪快エピソードを披露。野球本としては異色の一冊に仕上がっている。