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佐々木主浩、高津臣吾の無名時代。
「歴代名クローザーの原点」を読む。 

text by

中溝康隆

中溝康隆Yasutaka Nakamizo

PROFILE

photograph byKazuaki Nishiyama

posted2017/06/27 07:00

佐々木主浩、高津臣吾の無名時代。「歴代名クローザーの原点」を読む。<Number Web> photograph by Kazuaki Nishiyama

プロ入り3年目シーズンの1992年。抑え投手としてシーズンを通して大活躍した佐々木。この年は最優秀救援投手として、初タイトルを獲得した。

エースから「遠く離れてぶっちぎりの2番手」に。

 そんな高津が'84年に進学したのが県立広島工業。ここで小学校時代から意識していた本格派投手の上田俊治とチームメイトとなる。

 その圧倒的な実力で1年の時から輝きを放つ上田とは対照的にサブグラウンドで体力強化に励む日々。高津少年は2年生になってもベンチ入りすらできず、夏の大会が終わって3年生が抜けたあとようやく2番手投手の座を手に入れる。それでも「上田は広島県で名前を知られた絶対的なエースで、ボクは遠く離れてぶっちぎりの2番手」だったという。

 そこで高津は考えた。すべてにおいて平凡な自分がどうしたらチームの戦力になれるだろうかと。

 そして出した答えが「アンダースロー転向」である。

「上田が本格派だったので、同じことをやっても追いつけないと判断したのかもしれない。でも、どこかで諦めてた部分もあったのかもしれないですね。諦めたか、割り切ったか、開き直ったか」と決して前向きな理由ではなかったが、生き残るにはこれしかない。

 夢や希望だけじゃ生きていけない。

 現実だけがそこにあった。

甲子園出場も、とことんシニカルだった高津。

 背番号10をつけて春の選抜甲子園に出場したエピソードも、高津はとことんシニカルだ。「エースの上田は甲子園でも大会ナンバー1投手だと言われて、話題になってました。実際にほとんど打たれなかった。上田がメインで、ボクなんか注目度はゼロ。実力の差があったからしょうがないんですけど、全部、上田、上田、上田。上田の存在は大きすぎました」と自嘲気味に振り返っている。

 チームは2回校歌を聞いたが、高津は2番ファーストで出場するも、初戦の第1打席で手の平に死球を当てられたことも響き計7打数ノーヒット。結局、3年夏の甲子園にも出場しながら、最後までマウンドには上がれなかった。

 ちきしょう、この屈辱は大学野球で晴らしてやる――と高校の監督から薦められた、激しい練習と厳しい上下関係で知られる亜細亜大学へ進学。

 ……しかし、ここでも高津はとんでもない同級生の投手と出会う。

 のちに'90年ドラフト会議で前年の野茂英雄と並ぶ史上最多タイの8球団から指名されたサウスポー小池秀郎である。

 マジでツイてない、いつも俺が行く先にはとんでもない怪物投手がいる。

 だが、高津は折れなかった。

【次ページ】 大学でも2番手だったが、そこで自分の道を見つけた。

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