“ユース教授”のサッカージャーナルBACK NUMBER
病と闘う新潟の若きCB、早川史哉。
再びピッチに躍動する日を信じて──。
text by
安藤隆人Takahito Ando
photograph byJ.LEAGUE PHOTOS
posted2016/06/29 17:00
選手、チームスタッフ全員が「早川史哉選手支援基金」(http://www.albirex.co.jp/news/club/49121)の下に活動している。
シャイだが、リーダーシップ溢れる好青年。
早川史哉という男を一言で現すと、“純粋なサッカー小僧”だ。どこまでも人見知りで、どこまでもシャイで、自ら好んで人前に出て行くような性格ではない。しかし、サッカーに対する情熱は人一倍で、常にサッカーに真正面から向き合い、自分がやるべきことを考えて、ピッチ内外で模範的な行動をとる。
彼とは新潟U-18時代から接しているが、その会話はいつも非常に大人びていて、しっかりとしたサッカー談義が出来る選手だった。U-17W杯の取材に行ったときも、メキシコの地で話を重ねた。
「僕は学年が1つ上(1994年の早生まれ)なので、僕が責任感を持って取り組まないといけないと思っています。それに下の学年の選手たちは明るい奴が多いので、僕も率先して明るくしますが、彼らがノビノビとできるようにするのも僕の役目だと思っています」
当時、室屋成や岩波拓也など関西人を中心にチームが盛り上がっている中でも、早生まれで学年が1つ上の早川は、そこに混じりながらも、チーム全体に目を配り、チーム全体が1つになる雰囲気を作っていた。
当時のメンバーで、学年が1つ下の望月嶺臣(現・山口)は、「最初から1個上という感じは一切出さなかったけど、リーダーとしての存在感は凄く大きかった。ムードメーカーを買って出るけど、盛り上がったら、一歩引くような感じ。学年関係なく、分け隔てなくしゃべることが出来て、本当に頼もしかった」と振り返る。メキシコの地で、いつも柔らかい笑顔で全体を見つめている姿は本当に印象的だった。
筑波大では将来のために勉学にも打ち込んだ。
プレー面では左右両足を巧みに使いこなし、両サイドバックや両ワイドアタッカーもハイレベルでプレー出来るユーティリティー性を誇る。冷静沈着な頭脳を持ち、常に相手を“観察”し、相手の急所、味方の危険地帯を見抜いて、先回りが出来る。だからこそ、高さは無いがディフェンダーとしても高い能力を発揮出来た。
U-17日本代表でもそのハイスペックな能力を駆使し、全5試合出場3得点とベスト8進出の立役者となり、ピッチ外でも“優しいお兄さん”として、やんちゃな年下の選手たちを陰で支えた。
そして、筑波大に進学する際も、「プロにもなりたいけど、将来的には指導者にもなりたい。筑波大でいろんなことを勉強して、サッカー選手として大きく成長してプロになることはもちろん、その先もしっかりと意識して、4年間を過ごしたい」と、明確な目標、将来の道筋をしっかりと見つめていた。
リアリストでもあった彼は、黙々と将来の道に向けて4年間を過ごした。1年時からプレーはもちろん、勉強にも一切の手を抜くことが無かった。