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「箱根は厳しい。でも(早大は)優勝しますよ」瀬古利彦が断言…その根拠は? 40年前の箱根駅伝「奇跡の連覇」から連なる“早稲田の系譜”ウラ話
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清水岳志Takeshi Shimizu
photograph byTakeshi Shimizu
posted2025/01/27 11:03
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「(早大は)優勝しますよ」と断言した瀬古利彦。その言葉のウラには40年前の「連覇の記憶」と、その後の大事故があった
予想外だったのは、その後だ。
中村が8年間務めた大学の監督を退任し、「エスビー食品の監督に専念する」と言い出したのだ。後を継いだのは、鈴木重晴監督だった。
「鈴木監督は中村監督と正反対の方で、学生には何も言わず、学生主体の運営になりました」
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結果的に「お互いに厳しく律し、妥協しない年になった」と遠藤は言う。
「月曜が部活は休みなので、私も千駄ヶ谷組と神宮外苑で練習しました。鈴木監督も環境が変わらないように、原宿駅近くのマンションに部屋を借りてくれて」
寮の応接間に、走る距離とタイムを書き込んだ紙を貼って、それを基準に練習した。
前年1区を走った田原は「きちっとやれば、連覇できるだろう」と思っていた。
「自信がある練習をやっていたし、当時は珍しかった管理栄養士もいて、バランスのいい食事もとっていた。それもあって、風邪もひかない、故障もしない。圧倒的に恵まれた環境があったような気がします」
中村清を欠いても…目指した早大「戦後初の連覇」
迎えた1985年の箱根路。1区は2年連続で田原が務めた。
区間3位で9時過ぎに走り終えると、千駄ヶ谷に戻って、朝風呂に入ったという。
「私は一度も箱根に行ったことがないんです。表彰式のメダルを町長からもらうんですが、別の人が受け取った。翌日は10区の付き添いでした。遠藤さんも近くに住んでいて、朝、神宮外苑で一緒に調整した記憶がありますね」
華の2区を任された遠藤は、2人を抜いて首位に立った。
「残り3キロ。最後の坂で足は止まりましたが、襷を渡した後にジープに乗らなければいけないから、必死に走りました。鈴木監督はほとんど指示を出さない方なので、当時の主将の高橋(雅哉、4年)が、『お前が乗って叱咤激励してくれ』と」
今では考えられないことだが、遠藤は走り終わった後、往路の最後までジープから声をかけ続けたという。
金は山登り3年目。小田原から箱根湯本までは緩やかな上り。そこから急激な坂が始まる。
「スピードが落ちる。太ももがパンパンになる。前半なのに体がオールアウトになる。頂点に行ってそこからは全力で下るんです。スピードを怖がってひるむとブレーキがかかる。酸欠で頭がクラクラしますがダッシュです。手を抜くところが1mもない。1時間10分、全集中」
前も後ろも離れているのか、近づいているのかもすぐにはわからない。見えないから一人で戦わないといけないプレッシャーもかかる。不安な気持ちが表に出てはいけない。攻め続けるのみ。5区とはなんと奥が深いことか。