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「20キロ走った直後に、もう一度20キロを…」「先輩が田んぼの水を飲んでいた」40年前の早大“箱根駅伝連覇”を生んだド根性「トレーニング秘話」
posted2025/01/27 11:02
text by
清水岳志Takeshi Shimizu
photograph by
KYODO
瀬古利彦と中村清の師弟が新入生のリクルートに力をいれはじめたのは、瀬古が3年生になった頃だった。
最初に声をかけたのが、3年下の金井豊(沼田高、群馬)だった。
瀬古はインターハイのレースを見て、中村から「声をかけてこい」と言われて、肩をたたいた。しかし、金井も瀬古同様、最初の受験に失敗する。金井は千駄ヶ谷に引っ越していた瀬古の下宿の隣で、浪人生活を始めた。予備校に通いながら神宮外苑で練習もした。
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「予備校の一番前の席で勉強したらしいよ。『中村さんについていったら、強い選手になれるから』と元気づけました」
金井は浪人中にもかかわらず、群馬代表として国体で優勝。翌年の受験も複数の学部で合格した。瀬古は自分のことのように嬉しかった。
翌4月、金井の1年下の世代として瀬古の卒業と前後して入学したのが、後に中国電力で日本代表選手を何人も育てた坂口泰(世羅高、広島)、89年福岡国際マラソン4位でアジア大会代表になる谷口伴之(川崎北高、神奈川)たちだった。「瀬古利彦」というアイコンに憧れ、徐々に実力ある選手が早稲田に集まりだしていた。
勧誘では「1万mとかマラソンなら世界で戦える」
そして坂口、谷口の1年下に、秋田・横手工出身の遠藤司がいた。後の箱根連覇の時には、エースも務めたランナーだ。インターハイ800mで優勝した年の秋、中村がなんの前触れもなく秋田の自宅まで訪ねてきたという。
「瀬古みたいに1万mとかマラソンなら世界で戦える」
中村にそう口説かれて、他の大学から早稲田に進路を変えた。例によって1年目の受験に失敗した遠藤は、「とにかく東京に出てこい」と言われたという。
当時、中村と関わりが深かった実業団のエスビー食品のマネジャーが同じ秋田出身で、遠藤の面倒を見ることになった。
「新井薬師の一軒家の2階で同居しました。予備校に通いつつ、朝練して予備校から帰って20キロのロードワークをしたり。時々、早稲田のグラウンドに行って練習してました」
予備校の授業料は、中村が負担してくれたのではないか――と回顧する。
浪人中に秋田県陸上協会から遠藤にオファーが来て、800mで国体に出ることになったという。知らないうちにスタミナがついていた。
「2周目のタイムが落ちないなと思って走っていたら、浪人中にもかかわらず、自己ベストでした」