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箱根駅伝PRESSBACK NUMBER
「ヤバイ、ヤバイ…意識が飛ぶ寸前で」箱根駅伝“山の神”に惨敗したランナーが果たせなかった雪辱「大学3年の時に柏原竜二が入学してきて」
text by
佐藤俊Shun Sato
photograph byKYODO
posted2025/01/09 17:20
連覇へ意気込む東洋大の(左から)釜石慶太主将、工藤正也駅伝主将、エースの柏原竜二(2009年12月)©︎KYODO
大学3年になり、三度目の正直で「今度こそ」と思ったが、柏原竜二が入学してきた。春から山の候補として、一緒に練習するようになった。
「夏合宿、柏原と一緒に山を走っていたんですが、もうけちょんけちょんにやられました。彼は先輩にも物怖じしないガツガツくるタイプで、もう圧倒されましたね。それからは山のリザーブとして、5区と6区のバックアップをしつつ、2年間の経験を少しでも伝えていければと思っていました」
第85回大会、獰猛なルーキーは、5区を区間新で快走し、東洋大学を優勝に導いた。この走りを見ていた今井は、柏原の走りに賛辞を送った。
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「高校のときから話は聞いていましたし、都道府県駅伝(天皇盃全国都道府県対抗男子駅伝競走大会)の際は5区についていろいろ聞いてきてくれた。同郷の選手に記録が抜かれて、悔しさもありましたが素晴らしい走りで、むしろスッキリしました」
主将に就任した最後の箱根駅伝でも…
釜石は4年になって主将になった。しかし、足の故障から満足に走れず、箱根駅伝のエントリー直前にはインフルエンザに罹患し、メンバーからも外れた。
病気から回復すると、朝4時に起きてグラウンドを掃除し、主力が走るコースの交通整理をするなど、裏方に徹した。
「4年目は、箱根の連覇がかかっていたので、もう割り切っていました。キャプテンという立場、2年間箱根を走らせてもらった立場、酒井俊幸政権1年目というタイミングでもあり、いろんなものを背負っての最後の箱根だったので、自分の個人的な思いよりもチームの優勝を第一に考えていました」
走れないながらも主将として臨んだ2010年の第86回大会は、釜石の献身的な行動や出走した選手のがんばりもあって見事、大会2連覇を達成した。
3年、4年時は柏原の出現で出走できなかったが、その経験も含めて4年間は大事な時間だったと釜石は回想する。
「箱根を目指す選手で努力していない人はいないと思うんです。相当な努力をしている大前提で1月2日、3日にピークをもっていくというのは、すごく難しい。そこで力を発揮するというのは、個人的には究極の領域だなと思いました。そういう難しさ、怖さみたいものを経験し、それを3、4年のときに伝えることができてよかったです」