甲子園の風BACK NUMBER
「小倉見たか、ばかやろう!」名参謀にキレた球児時代から20年…県立校を経て横浜監督になった37歳「白山での7年間があるから、今の自分が」
posted2024/07/08 11:01
text by
大利実Minoru Ohtoshi
photograph by
Minoru Ohtoshi
最初に選んだ道は県立高校の教員
高校時代はキャプテンを務め、涌井秀章(中日)や石川雄洋(元DeNA)らとともに2004年夏に甲子園に出場している。2学年下に「スーパー1年生」と騒がれた福田永将(元中日)がいたこともあり、夏の大会は二番手捕手。当時の小倉清一郎コーチの厳しい指導に、村田キャプテンが感情的に“キレた”こともひとつの原因だった。
2018年発売『激戦 神奈川高校野球 新時代を戦う監督たち』で、貴重なエピソードを語ってくれた。要約して、紹介したい。
「夏の大会前に、渡辺(元智)監督が脳梗塞で倒れて、小倉コーチが指導している時期がありました。ぼくはキャプテンなので、厳しいことをめちゃくちゃ言われる。6月の東北遠征では、ダルビッシュ有がいた東北高校(宮城)との試合前に、小倉コーチと些細なことで言い合いになって、『だったら、試合に出ねーよ!』と反抗したんです。
スタメン発表したあとだったので、『いいから、お前は試合に出ろ』と言ってきたんですけど、『出るわけねぇだろう!』とまた反抗。小倉コーチはとんでもなく怒っていましたけど、こっちも納得いかなくて……。この試合でぼくの代わりに出たのが福田で、そこで大活躍。小倉コーチも『お前なんて、もういらねぇよ』となったんですよね。今思えば、幼かったと思います」
「小倉見たか、ばかやろう!」…その後の人生
神奈川大会は、常にベンチからのスタート。準決勝の横浜商大戦の7回に、満塁から走者一掃のタイムリー三塁打を放ったときには、三塁ベース上で右手の拳を高々と突き上げて、吠えた。
「小倉見たか、ばかやろう!」
個人的には、神奈川高校野球史に残る名場面だと思っている。
決勝で神奈川工を下したあとには、泣きながら勝利の校歌を歌い、優勝インタビューでも泣き続けていた。感情が表に出るタイプだった。
指導者の道を視野に入れながら日本体育大に進んだが、硬式野球部ではなかなかうまくいかず、3年生になる頃にはほぼ休部状態となった。