甲子園の風BACK NUMBER
「小倉見たか、ばかやろう!」名参謀にキレた球児時代から20年…県立校を経て横浜監督になった37歳「白山での7年間があるから、今の自分が」
text by
大利実Minoru Ohtoshi
photograph byMinoru Ohtoshi
posted2024/07/08 11:01
横浜高校の村田浩明監督
渡辺監督に相談に行くと、「うちの練習を手伝ってみないか」とありがたい言葉をもらい、3年生の冬から学生コーチとしてチームに入るようになった。4年時(2008年)の夏には、土屋健二(元DeNAなど)らを擁して夏の甲子園でベスト4にまで勝ち上がった。
「指導者として野球を教えたい」という気持ちは、日に日に強くなり、渡辺監督からは「横浜高校に戻ってこい」と誘いもあった。渡辺監督、小倉コーチのもとで野球を学べるのは幸せなことだったが、県立高校の教員採用試験を受験することを決意した。
当時、任されていたのはBチームの指導。メンバーには入れないが、他校であれば活躍できるような能力の高い選手がたくさんいた。陽の目を見させてあげたい。横浜に憧れる気持ちはOBとして十分に理解できるが、もし魅力のある学校がほかにあれば、違う選択肢もあったかもしれない。
白山の7年間があるから、今の自分がある
たどり着いた結論は、「県立の監督として甲子園を目指す」。私学が圧倒的に強い神奈川において、県立高校が甲子園に行くのは奇跡に近い確率であることはわかっていた。でも、だからこそ、名門私学とはまた違うやりがいがあるのではないか。
夏の甲子園期間中に教員採用の二次試験を受け、見事に現役で合格。初任の霧が丘では、野球部の部長を4年務め、2013年から白山に移り、秋から監督に就いた。
グラウンドの草取りを自ら行い、横浜のOBの協力を得て、打撃練習ができる鳥かごを設置するなど、環境作りから始めた。当初は、「村田監督は厳しそう」という噂が広まり、14人いたはずの部員が新チーム初日には4人しか出てこないこともあったが、「野球部が一生懸命にやっている」という評判が広まり、全員がグラウンドに戻ってきた。
それまでは秋春の県大会に出るのがやっとだったチームが、コンスタントに地区予選を勝ち抜くようになり、2017年夏の県大会では2勝を挙げて3回戦進出。続く新チームは秋ベスト16、春ベスト16、夏(北神奈川)ベスト8と、ひとつ上のステージで戦うことができた。