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スポーツ・インテリジェンス原論BACK NUMBER
「翌日に“大ゲンカ”ですよ」田中史朗が語るエディー・ジョーンズとの初対面…あの大金星はフミさんの衝突から始まった「僕はリーチを推しました」
text by
生島淳Jun Ikushima
photograph byKiichi Matsumoto
posted2024/07/05 17:00
現役ラストゲームで花束を受け取った田中史朗(39歳)。セレモニーでは涙を見せたが、最後は笑顔でピッチを後にした
田中がはじめて日本代表のキャップを獲得したのは、2008年5月、アジア5カ国対抗のアラビアンガルフ戦。HCはオールブラックスのレジェンド、ジョン・カーワンだった。日本はカーワン体制で2011年のW杯に臨んだ。
「振り返ってみると、2011年W杯はチームとしてのマネジメントが整備されてなかったのかなと思います。プールステージの4試合を2つのチームに分けて戦うことになりました」
日本はフランス、ニュージーランド、トンガ、カナダの順番に対戦することになっていたが、開催国であるニュージーランド戦で日本はメンバーを大幅に替え、主力選手をメンバー登録しなかった。勝ち目の薄いオールブラックスとの試合より、3戦目のトンガ戦こそ「マストウィン」、落とせない一戦という意図でレギュラークラスを多く外したのである。結果はニュージーランドに7対83と完敗、トンガにも18対31で敗れてしまう。
「AとBに分かれてしまった感じでした。僕はAに入っていたのでモチベーションは上がっていたんですが……。いま思うとチームの一体感は出しづらかった気がします。それに、普段から日本人と外国人のグループに分かれてしまっていて、全員がひとつの目標に向かっていくという姿勢は2015年、2019年に比べて低かったですね。
そんな状況でしたが、僕らのオアシスだったのが通訳の中澤ジュリアさんで、コーチが選手たちに『こんなことならもう帰れ』と英語で言ったら、ジュリアさんが『そのようなプレーしかできないのでしたら、荷物をおまとめになって、お帰りください』と、やたら丁寧な日本語に通訳してくれるので、みんな笑いをこらえられなかったのもいい思い出です(笑)」
最高峰の舞台で学んだ会話の重要性
このW杯のあと、田中はニュージーランドのスーパーラグビーに所属するハイランダーズでプレー。ここでラグビーにおけるコミュニケーションの楽しさに目覚める。
「僕、そんなに英語できないんですよ。でも、お互いの気持ちが伝わることでいいプレーが生まれる。ほんまに最高やと思いました。そのときヘッドコーチだったのがジェイミー(・ジョセフ)でしたが、メンバー一人ひとりに鍵を渡してチームがひとつになることの重要性を強調していました。ああ、チームビルディングってこういうふうにするんだなということを勉強させてもらいました」
田中はその後、ジェイミーと日本代表で再会することになるが、その前に出会ったのが2012年に日本代表HCに就任したエディー・ジョーンズだった。