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プロ野球PRESSBACK NUMBER
「必ず若い番号に戻してやる」落合博満が忘れなかった“悲運のエース”との約束…消えた天才と呼ばれた中里篤史は今〈中日ドラ1右腕の悲劇〉
text by
栗田シメイShimei Kurita
photograph bySankei Shimbun
posted2024/04/23 11:21
2005年10月1日広島戦、4年ぶりとなる復活登板でプロ初勝利をあげた中日・中里篤史(当時23歳)
翌2008年はオープン戦から好調を維持し、初の開幕一軍入りを果たした。
だが、5月には二軍降格するなど、13試合の登板にとどまり、本人からすると納得のいくパフォーマンスは出せなかった。背番号も「18」から「70」に戻されている。2009年も2試合の登板に終わり、同オフについに戦力外通告を受けた。
2010年に再起を誓って巨人と契約するも登板は2試合止まり、2011年も一軍登板なしに終わると、その年のオフに再び戦力外通告を受けて中里は引退を決意した。
「ジャイアンツをクビになった時、まだやりたいという気持ちはありましたよ。実際にMLBのマイナーリーグや国内の独立リーグから声をかけてもらっていたので。その一方で、2006年以降はちょっとずつ『違うな』と思って投げていた部分もあったんです。だから、自分が思うところまでピッチングを戻せるのか自信もなかったし、今の自分はプロの世界では厳しいということも薄々感じていました。そしてNPBで投手としてやりたい、という意地もあった。バッターとしてやっていたら、ともよく言ってもらいましたが、実際に打者陣の練習を見ていると、トレーニングの内容も全然違いますから。僕にはバッターとしてやる、という選択肢は最初からなかった。だから(引退を)受け入れるしかなかったんです」
「真っ直ぐにこだわりたい」
中日の入団会見でそう述べた中里の11年間のプロ野球生活は、その言葉の通り、投手として生きることにこだわり、自分の理想のストレートを追い求め続けたものだった。記録よりも記憶に残る、という言葉がこれほど当てはまる選手も稀有だと感じるのだーー。
スコアラーとして忙しい毎日
2011年を最後に、ユニホームを脱いだ中里は現在、巨人のスコアラーとして全国を飛び回る慌ただしい日々を過ごす。先乗りスコアラーとして、各球団のデータを資料にまとめるのが中里の日課となった。
勝敗に直結する仕事でもあり、データをチームに届ける際はいつも時間との戦いで、現役時代とは異なる苦しさを感じることもある。それと同時に、そんな苦しさが中里にとってはやりがいにもなっているのだ。選手から立場が変わったことで、一層野球の奥深さに気づいた、と中里は冷静に話す。
選手時代は中日の黄金期の投手陣を間近で見てきた。引退後はスコアラーとして、他チームの投手陣も分析する中里に、質の高いストレートを投げると感じる投手はいるかを尋ねてみた。熟考し、長い沈黙の時間が流れた後に2人の名前が上がった。