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プロ野球PRESSBACK NUMBER
「必ず若い番号に戻してやる」落合博満が忘れなかった“悲運のエース”との約束…消えた天才と呼ばれた中里篤史は今〈中日ドラ1右腕の悲劇〉
text by
栗田シメイShimei Kurita
photograph bySankei Shimbun
posted2024/04/23 11:21
2005年10月1日広島戦、4年ぶりとなる復活登板でプロ初勝利をあげた中日・中里篤史(当時23歳)
「今にして思うとですが、自分自身や周りからも『中里はこういうピッチャーだよ』という像があって、その理想だけを追い求めすぎた面はありました。自分の足りないところを補うとか、モデルチェンジじゃないですけど、変わっていくということには消極的でした」
2006年のシーズン後半、中里はこれまでにない良い感覚でピッチングと向き合っていた。日本ハムとの日本シリーズでも2度の登板機会を得て、新庄剛志の現役最後の打席で三振に切ってとった。「火の玉」とも称されたストレートが面白いように決まり、自信を深めていた。
「ルーキーイヤーの時に近いというか、感覚的にも本当に良いボールが投げられていて手応えもあった。体の状態も良くて、かなりいいイメージでピッチングが出来ていました」
自身を含めた誰もが、セットアッパーとしての飛躍を期待した。しかし、再び悲劇が中里を襲う。
バランスボールから落下して左肘骨折
調子が上がらず二軍暮らしが続いていた2007年半ばにバランスボールから落下し、今度は左肘を骨折し、シーズンを棒に振った。本人曰く、その怪我は大きな影響はなかったが、ピッチングは些細なことでも歯車が狂う。特に中里のような大怪我を負った選手は、怪我の箇所を庇う意識など、ほんの小さな感覚のズレがピッチング全体に影響を与えることは想像に難しくない。
中里は4年にも及んだリハビリ生活について、「だんたんそれが当たり前の生活になるから、そこまでつらいと思わなかった」と述べている。むしろ、怪我が癒え、良いイメージを持って以降の調整の難しさについて、もどかしさを感じていたのかもしれない。
「怪我をしてから、微妙な感覚のズレや球質の変化は多少あったと思います。投球フォームも変わりましたし、それをどう微調整出来るかも投手の大切な能力。試行錯誤を重ねながら、良くなるために一生懸命トレーニングをしてきましたし、『これで結果が出なければ仕方ない』と出来ることはやってきました。ただ、2007年からの5年間は思うようなボールがいかず苦しい時間でした」