巨人軍と落合博満の3年間BACK NUMBER
「今のアウトだろっ!」激怒した巨人・落合博満41歳が塁審に“暴行”…退場処分になった落合が明かしたウラ側「彼に無視されたんだ」
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph byKYODO
posted2024/03/10 11:04
1995年6月7日の横浜戦。事件は3回裏に起こった。当時41歳の落合博満が退場処分になるまでには何があったのか?
満身創痍でもチームのためと試合に出続けた前年とは違い、長嶋監督も1995年シーズンは決して無理をさせず休ませながら起用した。背番号6は5月の月間打率.367と状態を上げ、武上四郎打撃コーチからの「ケース・バイ・ケースで大きいのは捨てて、つなぎ役をしてほしい」という要望を受け、本塁打こそ少なかったが、チャンスでは職人技の右打ちで打点を稼いでみせた。
「去年は自分が打つことはさておき、チームが勝つことを最優先したけれど、今年は自分のことを考えているよ。今年は数字を残さないと、野球を続けられなくなるから。でも、まだあまりよくはないわな。いい日と悪い日がはっきりしているからね。それをなくせばじきに3割2、3分までいくんだけれどね。守備で左肩を痛めて6試合休んだけれど、去年みたいに野球ができるかどうかというほどの怪我じゃなかった」(週刊ポスト1995年6月23日号)
巨人2年目はキャンプから一貫して、“オレ流”スタイルを崩そうとはしない41歳の四番打者。それは、例えばあくまで巨人のために己を殺した原辰徳とは対照的な野球観であり、人生観でもあった。5月30日のヤクルト戦、2点リードされた9回裏一死満塁の一打逆転サヨナラの場面で、打席に向かおうとした原に非情な「代打吉村(禎章)」が送られた。結果は最悪の二ゴロ併殺打でゲームセット。チームは首位ヤクルトに7連敗を喫し、6.5差と大きく離された。重苦しい空気に包まれた東京ドームのロッカールームで、屈辱を押し殺す背番号8に声をかけられる選手はひとりもいなかったという。
野村監督「“落合効果”なんかあらへん!」
四番落合への依存度軽減を掲げた大型補強だったが、新外国人のシェーン・マックは日本野球への適応に苦しみ、移籍組のジャック・ハウエルや広沢も期待に応えることができず、3年目の松井秀喜は打撃不振から4月下旬に六番降格を命じられた。投手陣では前年MVPの桑田真澄の右ヒジ側副靭帯断裂が判明して、トミー・ジョン手術を行い長期離脱となった。