決戦当日の落合は、試合前練習からひとり異様な雰囲気を醸し出していた。打撃練習では普段のようにミートポイントを意識しながら打つのではなく、鬼気迫る表情のままフルスイングでレフトスタンドへ立て続けに柵越えを放り込んだ。長嶋監督も、そんな背番号60の姿にやはり特別なものを感じていた。

「特に目をひいたのはやはり落合でした。どこからでもかかってこいという感じでね。それは大横綱が優勝決定戦の土俵に上がるような一種独特のオーラを発していた」（10.8 巨人vs.中日 史上最高の決戦／鷲田康／文春文庫）

　さらに落合は打撃練習が終わると中日のキャッチャー中村武志に近づいてきて、ボソボソと「きょうは今中だなあ」と独り言のようにつぶやいたという。昨年までの同僚に対して、「あいつはホントに凄いピッチャーだよ。あのカーブがあって真っすぐが来たら、オレはあいつの真っすぐは絶対に打てん！」とだけ言って立ち去った。

落合は怒っていた「絶対に中日にだけは優勝させない」

　通常とは違う打撃練習に相手へのゆさぶり。落合もなりふり構っていられなかった。少年時代のヒーロー長嶋茂雄を胴上げするためにやってきたはずが、今日の試合に敗れて優勝を逃すようなことがあれば、その長嶋監督が辞任してしまうかもしれない。巨人入団会見で、「監督である長嶋さんのクビを私が切ったら、末代までのいい笑い者になるんで、監督をどうにかして胴上げしたい」と口にすると、味方であるはずの巨人OBたちから「とても4億円の値打ちがあるような選手じゃない」と批判され、名古屋のメディアでは「落合がいないから中日はまとまる」という声すらあった。三冠王を三度獲得という、これほどの実績を残した選手もいなければ、これほど批判された選手も過去にいない。シーズン最終戦、40歳の体はすでに満身創痍だったが、オレ流の反骨心と闘争心は腹の底で燃えていた。

「何が何でも、絶対に中日にだけは優勝させないと思っていた。マスコミが『落合が出たから中日は優勝するんじゃないか』みたいなことを書いたでしょう。あれには腹が立ったからね。（中略）中日とデッドヒートを演じているころ『中日の快進撃の原因は落合を出したことだ』みたいなことを書かれて、冗談じゃないって思っていたから。無用な喧嘩を売ったら絶対に駄目なんだって」（激闘と挑戦／落合博満・鈴木洋史／小学館）

　エリート街道とは無縁で、25歳でプロ入りした叩き上げの落合もまた“怒り”を野球人生のガソリンにした男だった。この試合に己の選手生命とプライドを懸けていたのだ。その覚悟は試合前から、敵だけでなく、味方すらも圧倒した。

　そして、天下分け目の10.8決戦は、背番号60の一発から始まるのである。

＜続く＞