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「箱根駅伝を走らないという選択肢はなかった」元五輪代表・竹澤健介が語る“箱根と世界挑戦”両立の難しさ「今振り返ると、あんな状態では…」 

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和田悟志

和田悟志Satoshi Wada

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posted2024/01/08 11:01

「箱根駅伝を走らないという選択肢はなかった」元五輪代表・竹澤健介が語る“箱根と世界挑戦”両立の難しさ「今振り返ると、あんな状態では…」<Number Web> photograph by Getty Images

早稲田大在学中の2008年、竹澤健介は北京五輪の男子5000mと1万mに出場。座骨神経痛などの故障を抱えながらも、箱根駅伝との両立に挑んだ

エスビー食品陸上部が廃部に「ずっと後ろめたさが…」

 大学卒業後は、実業団の名門・エスビー食品に進んだ。

「学生の頃からお世話になっていたチームでしたし、憧れのチームだったので」

 瀬古利彦や恩師の渡辺といった、名だたる早稲田のOBと同じ道筋だ。

 だが、痛みが完全に引けたわけではない。外旋する動作など、思い通りに脚を動かすことができなかった。そんな状態でも社会人2年目の2010年には日本選手権の1万mで優勝してしまうのだから驚かされる。もちろん世界を知った竹澤が、それだけで満足することはなかった。むしろ学生時代のような走りを見せられず、もどかしさのほうが大きかった。アキレス腱のケガにも苦しみ、2012年のロンドン五輪は出場することが叶わなかった。

 その夏のことである。翌年の2013年3月をもって、エスビー食品陸上部の廃部が伝えられた。

 突然の廃部の知らせは、所属選手だけでなく、世間をも驚かせたが、竹澤は冷静に受け止めていた。

「みんな唐突だったと言っていたんですけど、僕はなんとなく雰囲気で感じていました。この決定には“お前はもういらないんだ”って言われているような気がしました。駅伝でも、個人としてもなかなか成果を上げられず、『僕たちは企業に何をもたらしているんだろう』と常に考えていましたから……。競技が業務の代わりのようなもの。そこで結果を出せず、ずっと後ろめたさがありました。

 それに、チームを丸ごと受け入れてくれる新しい所属先があったとして、僕ははたして頑張れるんだろうか。自分が決めたことではないから、“他責”にしちゃいそうな気がしました。このまま、言われるままに違うところに行っても、僕自身は成長できないんじゃないか。他責の人生を生きたくはない。そんな思いでした」

 ほどなくして、DeNAがエスビー食品のスタッフや選手を受け入れ、新しいチームを創設することが決まった。

 しかし、竹澤がその道に進むことはなかった。

<第3回へ続く>

#3に続く
「絶望感がありました」一度は陸上界を離れ…“箱根駅伝のヒーロー”竹澤健介はなぜ関西の大学で指導者に?「関東、関西と分けたくないんです」

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