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「箱根駅伝を走らないという選択肢はなかった」元五輪代表・竹澤健介が語る“箱根と世界挑戦”両立の難しさ「今振り返ると、あんな状態では…」 

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和田悟志

和田悟志Satoshi Wada

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posted2024/01/08 11:01

「箱根駅伝を走らないという選択肢はなかった」元五輪代表・竹澤健介が語る“箱根と世界挑戦”両立の難しさ「今振り返ると、あんな状態では…」<Number Web> photograph by Getty Images

早稲田大在学中の2008年、竹澤健介は北京五輪の男子5000mと1万mに出場。座骨神経痛などの故障を抱えながらも、箱根駅伝との両立に挑んだ

「3区しかなかった」痛みを抱えて走った箱根駅伝

 日本代表まで上り詰めた一方で、竹澤には常にケガがつきまとった。大学2年の頃から抱えている股関節の痛みはずっと抱えたまま。座骨神経痛にも見舞われ、大学3年の箱根駅伝は2区を回避し、3区を走ることになった。

「練習を積めていなくて20km走れる体ではなかったのですが、僕がどれだけ悪くても、僕が走ったほうが他の選手よりも速いと思っていました。でも、2区を走れる状況ではなかったので、前半が下り基調の3区しか僕には残されていませんでした。あの時の僕にとって一番良い区間配置をしてくださったと思っています。渡辺さんも苦渋の決断だったと思いますが……」

 そんな状態でも、いざ走りだすとやはり格が違った。竹澤は12位でタスキを受けると7人をごぼう抜き。同じ区間には1学年上の上野裕一郎(中大)ら力のある選手もいたが、区間賞に輝いた。その年、早稲田は往路優勝を果たし、総合2位と大きく躍進した。

「走って良かったというよりは、役割を果たせた安堵感が大きかったですね。“ああ、終わった”という」

 だが、その代償はあまりにも大きく、座骨神経痛は治る気配を見せなかった。箱根後はレースから半年間も遠ざかった。復帰戦は6月の日本選手権。北京五輪の代表選考がかかった一戦だった。1万mと5000mの2種目を走れる状況ではなく、5000mに絞ってレースに臨んだ。

「練習も大してできていなかったなか、いろんなことが噛み合った日本選手権でした。あれは神様がくれたご褒美だった気がしますね。もちろん痛みはありましたが、感情でうまく飛ばした。集中力があったんだと思います。現状でできることはやれました」

 そのレースで2位となった竹澤は、5000mだけでなく、1万mで五輪に出場するための記録を突破していたこともあって、2種目で北京五輪に出場した。しかし、前年の大阪世界選手権に続き1万mで周回遅れとなり、またも世界との差を見せつけられた。

「五輪は出るだけじゃなくて、活躍しなきゃいけない舞台なんだなって感じました」

 そう思わされたという。しかし、ロンドン五輪はトラックで、その4年後のリオ五輪はマラソンで、という道筋を思い描いていたものの、結局、五輪の舞台に竹澤が帰ってくることはなかった。

【次ページ】 「今振り返ると、あんな状態で箱根を走るのは…」

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