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「竹澤はもうちょっと走れると思っていた」箱根駅伝での挫折、OBの厳しい声に涙…竹澤健介が“低迷にあえぐ早稲田大”の救世主になるまで
posted2024/01/08 11:00
text by
和田悟志Satoshi Wada
photograph by
AFLO SPORT
五輪と比肩する「早稲田のユニフォーム」の重み
ヒーローは決まってピンチの時に現れる。
2000年代の早稲田は箱根駅伝で苦戦が続いていた。02年の3位から一転して03年に15位に沈むと、その翌年には過去最低順位に並ぶ16位に終わっている。
なかなか浮上のきっかけが掴めずにいた時期に、救世主のごとく早稲田に入学したのが竹澤健介だった。
1年目から花の2区を担うと、2年時には区間賞を獲得し、チームもシード権奪回に成功した。さらに3、4年時は3区で区間賞。チームは2年連続で2位と躍進した。結局4年間で箱根駅伝の総合優勝には届かなかったものの、竹澤は、紛れもなく、名門復活の立役者だった。
「早稲田のユニフォームを着て走ってチームに貢献することは、五輪に出るのと同じぐらい僕にとっては大きなことで、魅力あることでした」
こう振り返るように、押しも押されもせぬ燕脂のエースは、ただただチームのために力を注いだ。
竹澤少年の心を鷲掴みにした“渡辺康幸の区間新”
ご多分に漏れず、幼き頃の竹澤家の正月は、テレビに箱根駅伝が流れていた。
「本当はお正月の特番が見たいと思っていたんですけどね(笑)」
まだ小学校低学年だった竹澤健介の原初の箱根駅伝の思い出だ。
当時はただ漠然と見ていただけだったが、ある年、竹澤の兄が「青いチームを応援する」と言い出した。青いチームとは山梨学院大学。当時は留学生のステファン・マヤカを擁し全盛期を迎えていた。幼いながらに兄への対抗心を持っていた竹澤少年は、それならばと、山梨学院大と優勝争いをしていた赤系のチームを応援することにした。そのチームこそ、後に自身も袖を通すことになる燕脂のユニフォームの早稲田大学だった。
「感覚としては青レンジャー、赤レンジャーみたいな感じでした」
いわば、幼き竹澤兄弟の代理レースがテレビの中で繰り広げられていた。