箱根駅伝PRESSBACK NUMBER
「箱根駅伝を走らないという選択肢はなかった」元五輪代表・竹澤健介が語る“箱根と世界挑戦”両立の難しさ「今振り返ると、あんな状態では…」
posted2024/01/08 11:01
text by
和田悟志Satoshi Wada
photograph by
Getty Images
竹澤健介が「世界」を意識した夏
それまで箱根駅伝を目標にしていた竹澤健介だったが、活躍を重ねるごとに自然と目線も上げていくことになる。
「もともと志は高いほうではない(笑)。自分が想像できうることしかできないタイプだったので、想像できることを確実にこなしていきました」
こんなふうに学生だった頃の自身を分析するが、いつしか「上の舞台で戦ってみたい」と考えるようになっていったという。大きな契機は大学2年の夏のヨーロッパ遠征にあった。
「スピード感や躍動感が国内のレースとは違っていて、向こうの選手たちと一緒に走って“ああ、楽しいな”って思えました。こんなストライドでなければ世界で戦えないのか、ということも思い知らされました」
竹澤の中に新たな基準が生まれ、少しずつ世界を意識するようになっていった。そして、その舞台に立つ日はすぐにやってきた。
大学2年の箱根駅伝で大活躍した竹澤は、一躍、学生の枠を超えた日本のトップランナーに成長する。3年生になってすぐにアメリカのレースで、恩師の渡辺康幸が持っていた1万mの日本人学生記録を塗り替えると、その夏、大阪で開かれた世界選手権では日の丸を背負った。
「あの年はとんでもない暑さだったのを覚えています」
竹澤は1万mに出場し12位。もちろん納得のいく結果ではなかった。
「ヨーロッパ遠征を経て、ちょっとは走れるんじゃないかって思っていたんです。そこに上からゲンコツをされたような、そんなレースでしたね」
周回遅れにされ、世界との差を痛感した。ちなみに、同じレースで1つ前の11位だったのが、アメリカのゲーレン・ラップ。後にロンドン五輪の1万mで銀メダル、リオ五輪のマラソンで銅メダルと世界のトップランナーに成長する選手だった。