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鉄道会社の運転士、整形外科医、そして大エースは?…全国高駅伝“連続入賞新記録”に挑んだ《駅伝超名門》佐久長聖高ランナーたちの「その後」
posted2023/12/24 06:09
text by
山崎ダイDai Yamazaki
photograph by
BUNGEISHUNJU
特に前任の両角速監督時代には、1998年の初出場から同監督が2011年に東海大に移るまで13年間でたった一度しか入賞を逃していない。では、その「たった一度」が起こった2004年――“史上最強の大エース”を擁したハズの名門校の蹉跌の裏では、一体何が起きていたのだろうか?【全3回の後編/前編、中編も公開中】
初出場から6年続いた全国入賞を逃した失意の日から1年。翌2005年の都大路で佐久長聖高は4位に返り咲いた。
前年1年生で5区を走った高野寛基はこの年、主要区間である4区を担いチームの復活に貢献した。一度途切れた伝統の襷を繋ぎ直す意味で、この年の入賞は殊更、価値のあるものでもあった。
チームが大きく変わったのは、夏過ぎのことだった。
「9月頃に両角先生から『お前たちは言われたことをやっているだけで、考えていない。それじゃダメだろ』とめちゃくちゃ怒られたんです。先生からすると取り組み方が受け身に見えたんだと思います。そこからはメニューも自分たちで考えて、提出して。遠征計画も自分たちで……みたいな時期もありました」
前年のチームには佐藤悠基という大エースがいた。知らず知らずそのエースに依存したことをひとつの要因として、初出場から続けてきた連続入賞を途切れさせてしまった。その幻影を、高野たちがこの年も追い続けていたように見えたのかもしれない。
「そこからはガラッと変わりました。『自分たちでなんとかしないと』という気持ちになって、部員同士コミュニケーションを密にとるようになった。主体性、自主性が出てきたんです」
その流れは高野たちが3年生になった翌年も続いた。都大路では6位入賞、高野自身も3区で20人抜きの大爆走を見せるなど、入賞常連校の立ち位置も再構築できた。
早大で箱根駅伝総合優勝→地元・長野で電車の運転士に
その後、高野は箱根の名門校でもある早大へと進学した。
4年時の2011年は総合優勝のメンバーにも名を連ねた。6区の山下りで転倒しながらも逆転で首位に立った走りは、ファンのかたり草になっている。
実は大学時代に高野はふと、高校1年時の都大路での「失敗」を思い出すことがあった。
早大時代、高野の2学年上には竹澤健介(現摂南大ヘッドコーチ)という大エースがいた。大学生ながら世界大会に出場するなど、実力的には完全にチーム内で別格だった。
ただ、不思議と竹澤は「孤高」の存在にはならなかった。