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テレビ解説も思わず「ちょっと脆いですね」…全国高校駅伝20年前の《大波乱の内幕》初出場から“6年連続入賞”駅伝「超名門」佐久長聖高“失敗の本質”
posted2023/12/24 06:08
text by
山崎ダイDai Yamazaki
photograph by
JIJI PRESS
特に前任の両角速監督時代には、1998年の初出場から同監督が2011年に東海大に移るまで13年間でたった一度しか入賞を逃していない。では、その「たった一度」が起こった2004年――“史上最強の大エース”を擁したハズの名門校の蹉跌の裏では、一体何が起きていたのだろうか?【全3回の中編/前編、後編も公開中】
「悠基の調子があまりよくなさそうだ。後続に吸収されるかもしれない」
両角速監督からの電話を受けて、2区の中継所で待機していた長野・佐久長聖高校2年生の都甲渓は、頭が真っ白になっていた。
「あの佐藤先輩が? 本当に?」
疑問は次々に湧いてきていたが、都甲に答えを導きだす術などあるはずもない。当時、両角監督の指示もあり、レースを走るランナーたちはウォーミングアップへの影響を避けるため、テレビ中継などを見ていなかった。それゆえレースの情報は監督からの電話で伝わってくるものが全てだった。
エース区間の1区で「飛び出した」大エース
2004年の全国高校駅伝。エース区間の1区10kmでその年の「高校生No.1ランナー」として注目を集めていた佐藤悠基は、号砲と同時に留学生ランナーたちと一緒に集団から飛び出した。
この年の戦力図としては、優勝候補として宮城・仙台育英高が挙げられていた。
後の北京五輪マラソン金メダリストである故サムエル・ワンジルと5000mの高校記録(当時)を持つ佐藤秀和を擁しており、圧倒的な爆発力があったからだ。そして、佐久長聖はそれに次ぐ2番手グループとみられていた。エース区間の1区では実力的に抜けていた悠基と秀和、そして留学生ランナーが先行することは他のライバル校も想定済みの展開だった。
むしろ予想外だったのは、5km過ぎで悠基がすこしずつ失速し始めたことだった。
「ちょっと脆いですね――」
思わずテレビ解説の宗茂がそう溢したように、周囲は「日本人には勝って当然。どこまで前人未到の記録を出せるのか」という期待を抱いていた。もちろんそれは全国レベルの大会で“外した”ことが無かったスーパーエース本人にとっても同じことで、予想外の展開ではあった。
だが、本人やライバルチーム以上に衝撃を受けたのが、チームメイトたちだった。特に2区で襷を受ける予定の都甲の驚きは大きかった。
「前年、上野(裕一郎、前立教大監督)先輩も1区で日本人最高記録を出していました。それと同じ先頭付近で余裕を持った襷リレーを想定していたんです。それが1区でこんな展開になるなんて……全く想定していなかったのが正直なところでした」