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「外人ではなく“害人”だ」という苦情も…箱根駅伝で“留学生ランナー”が禁じ手だった頃「部員の鑑だったオツオリ伝説」
text by
工藤隆一Ryuichi Kudo
photograph byAFLO
posted2024/01/02 11:03
1989年、ジョセフ・モガンビ・オツオリが走った後に留学生ランナーの道が拓かれた
その証拠に、オツオリもイセナも、彼らに続く留学生たちも、大学の付属高校に入学させ、じっくり育てる方針をとったのである。
その結果、オツオリの存在は、アフリカから速く走るためだけに突然やってきた一時的な「助っ人」などではなく、競技以外の面でも他の日本人選手の底上げに寄与した“活性剤”だったことが徐々に明らかになった。
日本語が堪能で、後輩の面倒見がとてもいい
現在、山梨学院大の駅伝監督で同大学が2位に躍進した1991(平成3)年の第67回大会で1区を走り、2区のオツオリに襷を手渡した飯島理彰は、のちに次のようにオツオリを評価している。
「選手としても、私生活でも、彼は部員の鑑でした。日本語が堪能で、後輩の面倒見がとてもいいんです。私が8位で襷を渡したときも、ひと言も叱らず『来年しっかり頑張ろう』と声をかけてくれました」(『山梨学院大トピックス』2006年9月1日号より)
そして、その言葉通り、翌1992(平成4)年の第68回大会で、山梨学院大は見事初優勝を飾ったのである。脚の調子が思わしくなかったオツオリはこの年2区を走り、それでも区間2位。3年前、区間15位と期待に応えられなかったイセナは3区で区間新記録をマーク。飯島も4区を区間5位の成績で走り抜けた。
37歳で交通事故、部の護り神となったオツオリ
オツオリは卒業後ケニアに帰国したが、2003(平成15)年に再来日。新潟県西蒲原郡西川町(現・新潟市西蒲区)の重川材木店に入社し、大工として働く傍ら、同社陸上部の選手兼コーチとして若手選手を育て、2006(平成18)年に同社を全日本実業団駅伝の本戦初出場に導いている。
山梨学院大が創立60周年の記念事業として2006年に竣工した甲府市郊外の「川田『未来の森』運動公園」には、同じ年にケニアで交通事故に遭い、37歳の短い生涯を閉じたオツオリを顕彰するメモリアル・モニュメントが設置されている。石に嵌めこまれた銀色のプレートに記された文言は「陸上競技部草創期の功労者」で始まり、「永く陸上競技部の護り神とする」と結ばれている。
山梨学院大でオツオリの後を継いだのはステファン・マニャング・マヤカ(現・真也加ステファン)だった。
<続く>