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甲子園の風BACK NUMBER
野村祐輔が当時の球審と交わした会話「あれはストライクです」…佐賀北と広陵“伝説の2007年決勝”の後日談「おれは死ぬまでボールというからな」
posted2023/08/20 17:18
text by
安藤嘉浩Yoshihiro Ando
photograph by
Hideki Sugiyama
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「スタンドに飲み込まれたんですかね」野村祐輔の回想
広陵が4-0とリードして迎えた8回の佐賀北の攻撃。1死一塁で、百崎敏克監督は2年生の新川勝政を代打に送る。左打者の新川は1ストライクからの2球目を右前に運んだ。ひざ元に曲がってくるスライダー。この試合、佐賀北の打者が初めて野村祐輔の決め球をとらえた一打となった。
1死一、二塁。佐賀北にとって、得点圏に走者を送るのは初回以来になる。
「なんとか1点でも返させてあげたいな」。ぼくは記者席でそんなことを思っていた。ここまで大会を盛り上げてきた佐賀北。いい試合で甲子園の夏を締めくくって欲しいという思いがあったからだ。
ふと気づくと、阪神甲子園球場は異様な雰囲気になっていた。三塁側の佐賀北アルプスの応援に合わせ、球場全体が手拍子しているのだ。1球ごとにマンモススタンドが、歓声と悲鳴が入り混じったような反応を見せる。とくに野村の投球が「ボール」と判定されると、地鳴りのような大歓声が沸き起こる。
思い出される光景があった。
1998年夏、横浜(東神奈川)と明徳義塾(高知)の準決勝。0-6と一方的にリードされた横浜が8回に反撃に転じると、甲子園が異様な雰囲気になった。前日の準々決勝でPL学園(南大阪)を相手に延長17回、250球を投げた松坂大輔はレフトを守っていた。その松坂が三塁側でキャッチボールを始めたこともあって、球場のボルテージは一気に上がった。
横浜の渡辺元智監督(当時)に、あのときの心境を聞いたことがある。
「三塁側のベンチ最前列で、立っていられないほどの“風”を感じました」
長く監督をしたが、球場が揺れるような感覚を味わったのは初めてだったという。
「千両役者(松坂)が出てきたでしょ。そうしたら、おれなんか桔梗屋さん(時代劇の悪役)だよ」
自嘲気味にそう語ってくれたのは明徳義塾の馬淵史郎監督だ。
「大人がなんぼシナリオを書いたって、その通りにはいかん。甲子園はそういうとこなんよ」
高校野球ファンは決して、横浜や佐賀北を一方的に応援したわけではない。ただ、劣勢なチームに声援を送るような温かさが、甲子園にはある。