熱狂とカオス!魅惑の南米直送便BACK NUMBER
磐田で激怒しまくりドゥンガの日本愛「ゴン、ナナミ、フクニシ…“通常と異なる刺激”も」「ミトマにクボ、カマダ…“あのボランチ”も注目だ」
posted2023/07/16 11:02
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph by
Takao Yamada
1994年のワールドカップ(W杯)でセレソン(ブラジル代表)のキャプテンとして優勝トロフィーを掲げた世界トップクラスのボランチが、わずか1年後、創立から3年目のJリーグへ舞い降りた。このことは、世界中のフットボール関係者を驚かせた。
フリューゲルスと口頭で合意していたはずが
――1995年7月、ジュビロ磐田へ移籍。その経緯は?
「1995年6月にシュツットガルトとの契約が満了することから、日本を含む世界各国のクラブからオファーを受け取った。
私は1984年にインテルナシオナルの一員としてキリンカップに出場し、以来、日本の文化に強い興味を覚えていた。また、セレソンで一緒にプレーしたレオナルド(1994年から96年まで鹿島アントラーズ)、ジョルジーニョ(1995年から98年まで鹿島)らから「Jリーグでプレーすること、日本で生活することは素晴らしい経験になる」と聞いていた。
実は、日本のクラブで最初にオファーをくれたのは横浜フリューゲルス。口頭で合意したが、しばらくして先方から断りの連絡がきた。その後、ジュビロ磐田のハンス・オフト監督から電話をもらい数日後、強化部長がドイツへ来て交渉をすることになった。しかし、実際には彼は翌々日くらいにドイツへ来て『どうしても入団してくれ』と言うんだ。その熱意にほだされた」
――実際に日本へやってきて、当時のJリーグと磐田を取り巻く状況をどう思いましたか?
「まだリーグ創設当時の熱狂が残っており、すべてが『フェスタ』(お祭り)。試合はまるでコンサートのような雰囲気で、選手もファンもあまり勝負にこだわっていないように感じた。
それまで私はブラジル、イタリア、ドイツというメディアもファンも勝負にとことんこだわる国でプレーしていたから、驚愕した。どういうことなのか全く理解できなかったが、日本の生活が長いオフト監督が日本人のメンタリティーを説明してくれた」
――当時の磐田のチーム状況をどう思いましたか?
「ゴン(中山雅史)、ハットリ(服部年宏)、フジタ(藤田俊哉)、ナナミ(名波浩)ら優れた選手がおり、オク(奥大介)、フクニシ(福西祟史)ら将来性豊かな若手もいた。彼らがプロ意識を持って正しい努力を重ねたら、きっと強くなると思った。
ただ、試合の中でいつ攻めるべきなのか、いつ守るべきなのか、といったフットボールの基本がわかっていない選手がいた。これは、他チームも同様だった」
――そこで、あなたは何をしたのでしょうか?