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20歳の捕手が出したサインに工藤公康の顔色が変わって…「お手本に」と求められダイエー入りした名捕手が振り返る「若き日の城島健司のこと」 

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井上眞(日刊スポーツ)

井上眞(日刊スポーツ)Makoto Inoue

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photograph byKoji Asakura

posted2023/06/02 11:03

20歳の捕手が出したサインに工藤公康の顔色が変わって…「お手本に」と求められダイエー入りした名捕手が振り返る「若き日の城島健司のこと」<Number Web> photograph by Koji Asakura

投手に育てられ、先輩捕手に教えられ超一流への階段を登って行った城島

自分の出番は減っても…田村の思い

 一方で、城島が成長すればするほど、ベテランである田村の出番は減る。プロとしては矛盾する立場だが、城島の育成に重きを置いた。実は田村は、城島と同じ経験をしていた。

「近藤(貞雄)さんが日本ハムの監督だった89年に、若菜(嘉晴)さんが移籍してきた。その時、俺は『どうして若菜さんを獲るんだ』と思った。でも、若菜さんはいろんな話をしてくれた。3年間、一緒にプレーさせてもらって、多くを学んだよ」

 その若菜こそ、当時のダイエーバッテリーコーチ。96年オフに連絡を受け「城島を育てるために力を貸してくれ」と言われた。断る理由はなかった。ほどなくして、王監督からも衝撃の直電を受け、ダイエー移籍の腹を決めた。

「記者会見では、城島と競ってレギュラーを目指しますと言ったよ。でも、それは建前だった。王さんからも、若菜さんからも『城島を頼む』と言われていた。城島が一人前になれば、俺の出番はなくなる。そこは良く理解してダイエーのユニホームに袖を通した」

 移籍1年目は、試合終盤になると田村がマスクをかぶり試合をしめた。

「終盤になると俺に出番が回ってくる。そうすると城島が『お願いします』と言いに来た。心の中で『早くお前が最後までかぶれるようになれよ」と思っていた」

 田村は98年オフに引退。後日、城島が用意してくれた酒席に出掛けた。そこで、若菜、城島とともに捕手3代、尽きない話をした。和やかな、楽しい会食だった。

田村 藤夫(たむら・ふじお)

 1959年10月24日、千葉・習志野出身。関東第一高から78年にドラフト6位で日本ハム入団。93年に初のベストナイン、ゴールデングラブ獲得。93年オフ、巨人・長嶋監督からFA移籍でのラブコールを受けたが日本ハム残留。96年ロッテ、97年ダイエーに移籍し、98年限りで現役引退。指導者としてはダイエー、日本ハムでコーチを務めた後、2007年から中日・落合監督に請われて入閣。阪神、ソフトバンクでも指導した。プロ通算1552試合出場、1123安打、110本塁打。現在は評論家として日刊スポーツで「ファームリポート」を連載中

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