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20歳の捕手が出したサインに工藤公康の顔色が変わって…「お手本に」と求められダイエー入りした名捕手が振り返る「若き日の城島健司のこと」
text by
井上眞(日刊スポーツ)Makoto Inoue
photograph byKoji Asakura
posted2023/06/02 11:03
投手に育てられ、先輩捕手に教えられ超一流への階段を登って行った城島
プロ20年目でダイエーに移籍した田村に王監督が求めたものは、選手としての実力に加え、若き大型捕手の「手本」としての存在だった。当時プロ入り3年目だった城島健司。ルーキーイヤー(95年)は12試合出場、2年目は17試合。強肩で体も強く、バッティングが良かった。チームとしては早く独り立ちしてほしい存在だったが、司令塔としてのスキルと経験が圧倒的に不足していた。田村は選手でありながら、城島を支える役割を託された。そこから当時37歳の田村と、20歳の城島との濃い時間が始まった。
「キャッチングはいいとは言えなかった。それにリードも苦労していた。やることはたくさんありました」
城島のサインに顔色を変えた工藤公康
当時のダイエー投手陣の骨格は、左の工藤公康、右の武田一浩。加えて若田部健一、吉武真太郎、田之上慶三郎が先発ローテを担っていた。95年から王監督の元でダイエーは5位、96年は6位。「正捕手・城島」の存在が、チーム浮上の鍵を握っていた。
工藤も武田も優しく手を差し伸べるタイプではない。正捕手に育ってほしいと思いつつも、足りない技術には容赦なかった。
高知・春野のキャンプでは、ブルペンに入った工藤が城島のつたないキャッチングに2、3球でブルペンを引き上げてまった。試合中、ピッチングの組み立てができない城島のサインに、武田はマウンドに呼びつけ何度も叱責した。確かに、城島には試練の日々だった。
「大変だったと思う。でも、城島はグラウンドでもロッカーでも、工藤や武田に必死に話し掛けていた。ホテルの部屋に行ってまで話そうとしていた。絶対にそのままにしなかった」
田村さんが良く覚えている場面がある。工藤は城島のサインを見る。サッと顔色は曇るが、城島のサイン通りに投げる。そして打たれた。